ポストフェミニズムに関するブログ

ポストフェミニズムに関する基礎文献を紹介するブログ。時々(とくに大学の授業期間中は)ポスフェミに関する話題を書き綴ったり、高橋幸の研究ノート=備忘録になったりもします。『フェミニズムはもういらない、と彼女は言うけれど :ポストフェミニズムと「女らしさ」のゆくえ』(晃洋書房、2020)、発売中。

『フェミニズムはもういらない、と彼女は言うけれど』著者解題(2020年12月17日)

*某フェミニズム研究会で拙著の検討会をしていただきました。その時に出した著者解題をアップしておきます。

著者解題 高橋幸フェミニズムはもういらない、と彼女は言うけれど:ポストフェミニズムと「女らしさ」の行方』(2020、晃洋書房) 

概念整理 

ポストフェミニストとは、「フェミニズムはもういらない」という考え方や社会的態度を持っている人のこと。

・このような社会的態度は、英語圏および日本語圏のポップカルチャー研究で指摘されてきた。本書で取り上げた代表的な例として『ブリジット・ジョーンズの日記』(第1章)と、日本の「めちゃ♡モテ」ブーム(第5章)。

・このような考え方や社会的態度に基づいて行動している人の具体例として、#WomenAgainstFeminismハッシュタグムーブメント(第2章で分析)。

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ポストフェミニズム研究とは、

・ポストフェミニストの社会的態度を把捉し、そのような態度が生じてきた社会的背景を構造的に分析する研究。マルクス主義の凋落、ネオリベラリズム批判の議論という文脈の中で、フェミニストたちが形成してきた議論。具体的には90年代のリベラリズムネオリベラリズムが融合した中道左派政権を批判する中で確立した用語(アンジェラ・マクロビーらのギデンズ批判を参照せよ→『現代思想マックス・ウェーバー没後100年特集』2020年12月号でこのあたりについて少し触れてもいます)。

・ポストフェミニスト/ポストフェミニズムという概念を立てることの意義:フェミニズムが一定程度浸透したがゆえに登場してきた、90年代以降の女性のフェミニズムに対する態度を、「保守女性」や「アンチフェミニズム」から区別して捉えることができるようになる。

→ポストフェミニズムに相当する事例、すなわち一見すると女性のフェミニズム離れや、フェミニズムの主張から距離をとるような意見・社会的態度の登場と見えるような現象を分析することで、単純に「保守化」とは言えない「多様な」女性のあり方(女性が自由を追求し、実現するあり方)が見えてくると期待できる。

・この事例を研究していくことが、現代の(具体的にはバックラッシュ後の)「女らしさ」をめぐる社会的意識や社会的態度を明らかにするものとなるのではないか、というのが高橋の狙い(このあたりは「あとがき」に詳しく書いてあります)。

ポストフェミニズム研究の目的・射程 

なぜ私が「ポストフェミニズム」という語を使い続けたいと考えているのかというと、

フェミニズムはもういらない、フェミニズムは終わった」という女性たちもまた、実は「女性であること」をめぐるあれこれについてかなり真剣に考えている人たちであり、これによって起こっている社会現象もまた「フェミニズムの一種」ではないかと考えているから(第2章まとめp.56-59で書こうとして書ききれていないかも…なところ)。言い換えれば、彼女たちやそれによって引き起こされている社会現象はフェミニズムの文脈に位置づけて理解することができる(むしろ、そうしないと理解できない)と考えられるということ。

・第二波フェミニズムが一定の成果をもたらし、それと同時並行的にネオリベラリズムによる官製フェミニズムが進んでいるという現状を踏まえ、「一定程度フェミニズムが広がった後に起こっているフェミニズムの現状や問題」を捉えるための概念としてポストフェミニズムという語が有効だと、私は考えている。

 第1部「英米におけるポストフェミニズム」の概要 

第1章 先行研究整理からわかったこと

ポストフェミニスト女性の特徴は、1、フェミニズムから距離を取ろうとしていること(無関心もしくは反感)、2、恋愛や性に関する積極的態度を有していること。

フェミニズムへの無関心や反発とは具体的にどのようなものなのか?の解明(第2章)

→恋愛積極的態度とフェミニズムは対立するのか?の検討(第3章)

 

第2章 #WomenAgainstFeminism分析からわかったこと

 ポストフェミニストの主張の特徴として、「女らしさ」を楽しみたいという主張(「『女らしさ』重視」=女らしさへの自由)と、「女性」として扱われたくないという主張(「『個人』主義」=女らしさからの自由)の双方が見られることがわかった。

 このような態度を的確に把握するためには、再度、公私二元論に近いものを持ち出して議論を整理する必要ありか? とも思われたが、それは色々と気が引けたので、第3章では、とりあえず「性別役割」と「性的魅力」に分けて整理した。性別役割としての女らしさからの解放と、性的魅力としての女らしさへの自由の追求。

(→さらに、この本を書き終わったあたりで、次のようにまとめると、より的確であるのかもしれないと気づいた。すなわち、ポストフェミニストたちは「自分が望まない女らしさを他者から押し付けられたくない」=「女らしさからの自由」と、「自分が望むような女らしさを実現したい」=「女らしさへの自由」の両方の自由を要求しているのだ、と)。 

 ポストフェミニストは、社会において性別による不利な待遇を受けないことを前提にして、「女らしさ」を楽しむことを追求しているということがわかる。これは、フェミニズムが要求してきたことが一定程度実現されているという信念のもとで、「女らしさ」を追求しているという第1章の先行研究の知見とも合致するものである。

 

第3章 「恋愛とフェミニズム」からわかったこと

 「性別役割」と「性的魅力」の区別によって、フェミニズムの恋愛積極的態度批判の議論を次のように整理することができるようになる。フェミニズムは、他者に性的魅力を感じることを楽しんだり、自分の性的魅力を楽しんだりすることそのものを批判しているわけではないが、性的魅力の強化を通して性的差異が強化され、性別役割の固定化や、新たな性別役割の形成につながることを懸念してきたと整理できる。したがって、必ずしもフェミニストは恋愛積極的態度そのものを批判しているわけではない。フェミニストであることと恋愛積極的態度とは対立しない。

 

≪ここは、本を書き終わった後に考えたことなので、本には書いていません≫

第1部と第2部のねじれ問題(第2部で扱っている日本の事例は「ポストフェミニズム」の事例なの?問題):端的に言えばポストフェミニズムとは恋愛性積極的態度を伴った「フェミニズム離れ」のことだった。しかし、本書で扱っている日本の事例はたしかに「フェミニズム離れ」かもしれないが、性は消極化しているんでしょ? そこどうなっているの? という問題。

 バックラッシュ後を「ポストフェミニズム」の時期と定義し、その時期の女性向けポップカルチャーブームと社会的態度の動向を分析。

 

恋愛積極的態度

性積極的態度

西欧

(1990年代~)

〇 『ブリジット』

〇 “hyper sexualized culture”

日本

(2000年代後半~)

〇 めちゃモテブーム

(日本では恋愛積極的態度を通した性別役割分業意識の上昇が起こっている)

×  性行動の消極化

西欧のポストフェミニズムを理念型としたときの日本のポストフェミニズムの特徴は、この時期の若い世代における性的消極化が起こっていること。ここをどう分析し、捉えるのかを示す必要あり。

 ❷この本で虫食いになっているところ(論証が抜けているところ)は、西欧における性積極的態度の実証。本書では、マクロビーとナターシャ・ワルターによるネオリベラリズム時代の女性の恋愛的性的積極的文化の紹介(この分野に関する日本語訳はほぼなし、すべて英語文献の紹介)で済ませているが、データにあたっても少し裏づけすることはできるはず。

 

第2部「日本のポストフェミニズム」の概要  

性別役割分業意識の上昇(恋愛積極的態度を通した性別役割分業意識の上昇)

第4章 2000年代後半以降の性別役割分業意識の上昇:既存データの分析

第5章 バックラッシュ後の女性向けポップカルチャーで起きた流行現象で、性別役割意識の強まりを示す代表的な例としての「めちゃモテ」ブームの分析

  2000年代後半以降の日本の20代、30代に見られる性別役割分業意識の上昇は、あたかも「若者の保守化」であるかのように見える。

 →しかし、分析の結果、2000年代後半の性別役割分業意識の上昇は、個人のライフスタイルを決定する根拠となる価値観としての性別役割分業意識から、現実の状況に合わせて変えられるような性別役割分業意識への変化を伴っている。したがって、若い世代に見られた性別役割分業意識の上昇は、必ずしもフェミニズムが目指してきた理念の無効化や、若い世代のフェミニズムからの離反を意味しない。

 「めちゃモテ」ブームを起こした当該時期の『Can Cam』内の「エビちゃんシアター」分析から、「かわいい」という感情を通して、男性と女性に対する異なる役割期待が形成されていることが明らかになる。かわいいものを理解できる感性を女性たちに要求するという、新しい女性役割期待が形成されている。『Can Cam』では、まさに「モテたい」と望む女性たちの恋愛積極的態度によって、「男らしさ/女らしさ」に新たな意味を付与されて蘇っている。恋愛積極的態度が、性的差異の強化を引き起こし、ステレオタイプな「男らしさ/女らしさ」を強化していることが見てとれる。

  ■性行動の消極化

第6章 2000年代後半以降の性行動の消極化:既存データの分析

第7章 性的消極化を象徴するような新たな性行動としての添い寝(ソフレフレンド)の調査

  分析の結果、性行動の消極化の要因は大きく2つにまとめられる。第一に、ヘテロセクシャル男性と女性の間のダブルコンティンジェンシーである(3.)。男性においては、女性の意向を踏まえた自らの性欲表出の形式を模索するという「男らしさ」の変化と見られる行動が見られる。例えば、女性友人と対等な人間関係を築き、また、恋人同士であっても女性の意向に配慮して性交をしないと答えるカップルが見られるようになっている。女性においては「性的行為は男性が主導で行うもの」という男性イニシアティブ規範を保持している割合が男女ともに一貫して高い(男性も高いが、女性の方がより高い)。それゆえ、男性は女性の意向を踏まえた性的行動をとろうとするが、女性は男性が性的行動を主導するものという規範意識から、自らの意向をうまく伝えることができず、その結果、お互いに自分から行動を起こすことができないというダブルコンティンジェンシーの状況に陥っている。

 第二に、「愛のなかに囲い込まれた性」の価値が高まり、性への閾が高まったことである(4.)。2000年代後半には交際経験率、性交経験率が低下しただけでなく、1990年代に観察された複数交際(ふたまた)やセフレといった恋愛・性愛行動は、2000年代後半以降急激に減り、高校生、大学生、若者(20歳から39歳まで)を調査したデータ上ではごくわずかとなった。性関係を結ぶためには、相思相愛の恋人になる必要があり、恋人になるためには、数回のデート、手つなぎ、告白といった儀礼を行うことが重視される傾向が高まっている。

 「愛の中の性の価値化」は、恋愛積極的女性層(「めちゃモテ」女性に該当する層)が主導するかたちで、広がってきたことがうかがえる。愛のある性に価値があるとする人の割合は、高校生女子・大学生女子において1990年代後半から増加し、男子においても、2000年代前半から増加している。1990年代にピークを迎えた「性解放」後を生きる女性たちは、恋愛積極的であるだけで同時に性的にも解放的だとみなされがちだという状況にあった。2000年代以降の女性たちはこれに抗するように、愛の中の性の価値化を強めた。愛の中の性への囲い込みは、性解放後を生きる女性たちが、自らの望む形で、性の自由と愛の自由を両立させながら享受する方法だったと読解することができる。(これは必ずしも性行動の保守化とは言えない。性的自由とは、性行動に積極的になることだけでなく、したくない性行動をしたくないと言えることもまた「自由」を意味するのではないか。→参考資料も参照)

 ソフレは、一見すると若者の性の消極化を示すものと見えたが、実際に調査してみるとソフレ関係を結ぶ男性は、いずれも性行動において活発な行動をしている人であるということがわかった。一晩を共に過ごすということをしていても一線を越えることを踏みとどまるという行動をする人たちには、「愛の中の性の価値化」があることが確認できる。

 

 「ポストフェミニズム」という概念についての一歩踏み込んだ話(コラムⅠ)

 1990年代に登場してきた、第二波フェミニズムを反省的に捉える新たなフェミニズムの潮流は大きく3つに整理されることが多い(田中2012、Haywood et al. 2006)。第一に、第二波フェミニズム運動が中産階級の白人女性中心的だった点を反省的に捉え直し、第三世界フェミニズムや女性の多様性(人種、エスニシティ、階級、セクシュアリティ等)を重視したフェミニズムの潮流(hooks 1981=2010、 Spivak1998=1998、岡2000)。第二に、フェミニズム運動が一枚岩的なものとして想定しがちだった「男性」や「女性」という二分法的概念や、「セックス/ジェンダー」という二分法に基づく既存のフェミニズム哲学を乗り越えた、新しい思想的可能性を探求するポストモダンフェミニズム(Butler 1990=1999、Haraway 1991=2017、竹村2003)。第三に、女らしさを肯定的に捉え、多様な女らしさのあり方を実現していこうとする文化政治的運動(カルチュラルポリティクス・ムーブメント)としての第三派フェミニズムである(Walker 1992、Baumgardner & Richards 2000)。本書で扱っている「ポストフェミニズム」とは、この三つ目である。

 三つ目の文化政治的運動としての第三波フェミニズムは、90年代当初、ポストフェミニズムと混同されていた。両者とも、第二波フェミニズムが提起した「女らしさからの自由」に抗して、「女らしさへの自由」を主張するという点で共通していたからである。しかし、2000年代以降には両者は異なるものとして捉えられるようになった。第三波フェミニズムフェミニズムを批判的に継承するという立場を取ったのに対して——つまり、「女らしさからの自由」を継承しつつ、「女らしさへの自由」をも求める(消極的自由と積極的自由の双方の実現を目指す)——、ポストフェミニズムは「フェミニズムを終わった」として、フェミニズムからの断絶も辞さない点で、第三波とは異なっている(と、マクロビーらが整理していると読解できる)。

  

今後さらに考察・議論する必要がある部分      

・「フェミニズムはもう終わった」というような形でフェミニズムを無効化しようとする言説があることは、江原由美子フェミニズムと権力作用』(1988)の冒頭でも、『ジェンダー秩序』(2001)の末尾でも言及されている。つまり、1990年代の日本ですでにポストフェミニズム状況が見られたのではないか?ということも可能かもしれない。本書では、①下部構造におけるネオリベラリズムの進展という変化と、②バックラッシュ後のフェミニズムに対する社会的意識の変化(上部構造=イデオロギー的な状況の変化)の2点に基づいて、ポストフェミニズムバックラッシュ後に一般的に広く見られるようになったフェミニズムに対する態度として、位置づけ、定義している。(本書はバックラッシュが当時の若い女性に与えた影響を指し示し、これから議論をしていくための概念化であり、たたき台となる議論であると、私は考えている。)

  ポストフェミニズム研究の今後の発展可能性 

・本書が取り上げているのはポストフェミニスト女性だけだが、男性ポストフェミニストバージョンもあるのか? については、あると考えており、今後の課題だと考えている。

・例えば、男女ともに、「フェミニズムは終わった、もう古い」「まだ男とか女とか言っているの?」「フェミニストが男とか女とかいう概念で分析しているから、現代社会の男女不平等意識が残っているんだ」というようなことをいう人のことをポストフェミニストという。これは、フェミニズムを無効化しようとする言説の位置パターンで、アンチフェミニズムとは異なるものとして概念化しておくと、現在のフェミニズムをめぐる議論がよりよく整理できるようになる。

 

【感想】

検討会をやっていただいてみての感想。

長年運動をやってこられた方や、大御所多めの会でありまして、やはり、フェミニズムを批判しながら「女であること」を考えるというポストフェミニストの態度は受け入れられづらかった。予想できたことではあるが。#WomenAgainstFeminismに見られるように「アゲンスト」の立場をとっている時点で、彼女たちの話は聞いてもらえないというか、やっぱりフェミニスト的には、その点で引っかかってしまって、彼女たちが何を考えようとしているのか(ひいては、これを取り上げる私が何を論じようとしているのか)が理解されづらいのだなということが分かりました。(日本女性学会も基本こういう反応なのだろうなぁ…胃が痛い)

つまり、上記にも書いたフェミニズムはもういらない、フェミニズムは終わった」という女性たちもまた、実は「女性であること」をめぐるあれこれについてかなり真剣に考えている人たちであり、これによって起こっている社会現象もまた「フェミニズムの一種」ではないかと考えているの部分が理解してもらえなかったということです。

ただそれでも、私は、現代社会の文化的風潮を捉えるために、そしてそれをフェミニズムの文脈で読み解くためにポストフェミニズムという概念化は有効であると思っているし、手放すべきではないと思っております。

1980年代のポスター批判運動を知ろう(『ポルノ・ウォッチング:メディアの中の女の性』1990年、行動する女たちの会)

この本は、大変ユーモアにあふれています。怒りで動いてはいるんだけど、他者にプレゼンするときには、その怒りや不条理さの感情から距離をとって、面白く伝えようとしています。このような態度に至るまでには、ものすごい労力と、持続的な怒りがあっただろうということが透けて見えるので、私はものすごい感銘を受けています。彼女たちの本気度はやばい、この人たちはマジで伝える気がある、本気を出すとはこういうことなんだよな、と私は思っています。怒るのももちろん重要。だけど、その怒りを共有して持続的な活動に結晶化していくことがなにより重要。
実際に運動をやってきた人がよく言うことの一つに、運動は楽しくやらないと持続しないというのがあります。本当にそうだなと思います。みんな楽しくがんばろう。
 
さて、80年代から90年代にも女性表象ポスター批判がなされてきました。フェミニズムのセクシズム表現批判に対して「表現の自由」派が異論を唱えるの構図はこの時期にすでにあります。今の萌え絵ポスターをめぐる議論の構造はこの時期の展開をなぞっている感があって、「はぁ人間同じことを繰り返しているだけだなぁ」と私は若干げんなりしています。もうちょっと現代ならではの面白い議論の展開があってほしいよ*1
 
ただ、社会的背景をみると80年代と今の違いはあって、その点はかろうじて面白い。
80年代は性解放が進行していた時期なので、性的に解放的である方が「進歩的」(=都会的、時代の先端を行っている)と捉えられやすかった。そのため、「性的にあからさまなポスターは女性にとって不快だ(性差別的だ)」と訴えても、「今の若い人はこれくらいの表現なんとも思っていませんよ、むしろそんな保守的なことを言っている方がダサいですよ」的な扱いを受けがちだった。それに対して、現在は性暴力や性被害に関する社会的意識が高くなり敏感にもなっているので、同じことを言っても社会的に理解されやすいかんじがある(だからかつてポスター批判をされていた方たちの方がいまよりも10倍くらい大変だったはず。先人のご尽力に感謝。そして、われわれもがんばろう)。
 
かつて問題になったポスターとして、酒造会社「三楽」のバーボンウイスキー”ローリングK”の広告。(山口さんのツイッターを埋め込ませていただきます)
 

 

それから、西武園の「焦がれて、夏!」の美女水着ポスター。

などなど。他、各地のポスターに関する地道な抗議活動があります。

で、これらの地道な活動の蓄積を受けて、2000年代に「男女共同参画の視点からの公的広報の手引」作成がなされたという流れになります。そういえばさいたま市が手引きの改訂を近年やっておりましたね。それあとで、下記の記事に追記せねば。 

ytakahashi0505.hatenablog.com

 

 

*1:

青識さんには、オタクならではの新しい論理展開を期待しているところです。
小宮さんはかつて、青識さんは自分の議論が立てられないとご指摘されており、#シンこれフェミに参加してくださった友人も、青識さんは自分の立論がないし、フェミニズムについてまじめに議論する気もなくて、ただ相手がぼろを出すのを待っているだけだから研究者が出ていく価値はないと言っておりました。たしかにその通りなのですが、オタク界隈の議論の蓄積はあるわけだし、青識さんなんか面白い立論してくれれば張り合いがでるんだけどなぁー。というわけで、ツイッターのDMで、青識さんにゲーム的リアリズムをめぐるこれまでの議論の展開の解説をしたりしている。東の「反家父長制/超家父長制」、宇野の「レイプファンタジー」のあたり。面白いことになるといいんだけど。

男性の家事育児時間の2010年代の動向について

私と同年代の30代くらいの男性は、けっこう家事育児をやっているという話をよく聞くようになりました。そのことを統計的に実証している論文があったので紹介。

 

渡辺洋子(2016)「男女の家事時間の差はなぜ大きいままなのか─2015 年国民生活時間調査の結果から」『放送研究と調査』Vol. 66, No. 12, pp. 50-63

https://www.nhk.or.jp/bunken/research/yoron/pdf/20161201_6.pdf

 

国民生活時間調査は、NHK放送文化研究所が5年ごとにやっている調査。

まず、この論文のタイトル「男女の家事時間の差はなぜ大きいままなのか」の答えは、一言で言えば、男性の労働時間が長いからです。

 男性においては労働時間と家事遂行率や家事時間は負の相関にある(つまり、労働時間が長い人ほど家事をやらない)ということはよく知られている話で、このデータでも基本はそうです。しかし、この論文で私が注目したのは、男性30代40代のなかには「仕事も家事も」を目指す人たちが統計上見えるようになってきたという点。男性の二重負担ですね。

男性の家事行為者率(男性20歳から59歳、平日、1日15分以上の家事をやっている人を「家事行為者」と規定)は、95年時26%でしたが、そこから増加し続け、2015年で37%になっています(残りの6割くらいの男性は、母か妻か、親戚等の誰かに家事をやってもらっているということ)。

男性「家事行為者」のうちの一日平均家事時間は、1995年で1時間34分、2015年で1時間41分(時間的にはあまり伸びてないってことがわかる)。男性全体で平均時間をとると、37分(2015年)。

男性の行為者率を世代別でより詳しく見ると、30代が最も高く44%の人が家事をやっている。第二位が40代で37%、第三位は50代で36%、最下位は20代で29%。

すさまじいのは、30代と40代の男性の48%が1日10時間以上働いているということ(前回調査よりも3%増加)。で、30代40代男性で10時間以上働いている人のうちの28%が家事をしており、前回調査よりも上がっている。このなかには独身で自分の家事を自分でやっているというタイプもいますが、既婚・子ありで「男性も家事をやるのが当然だ」という意識からやるようになっているということも予想できます(渡辺さんは、そう示唆している。ちなみに、「意識」の方はNHKの「日本人の意識」調査のもので、違うデータなので、意識と行為者との相関は実証されているわけではない)。

もちろん、30代40代男性のうち、労働時間が短いほど家事遂行者率は高くなっています(8時間30分以上10時間未満の人の家事遂行率は40%、8時間30分未満の人は52%)。だから、「なぜ家事時間の男女差が埋まらないのか」の答えは、男性の長時間労働のせいだということになります。

 以上より、男性の家事遂行者率はちょっとずつ上がってきているということが分かりました。

 

2.

こうなってくると、いまや「女性が職場参入した初期に直面していた問題に、男性も直面しはじめたのだ!」ということを指摘する『新しい男性神話』(2016)みたいな本が出てくるのも、よくわかる話ではありますね。

この本もまたアメリカのミドルクラス男性の長時間労働と家事育児時間の伸びという現象を受けて、出てきた本でした。

men are experiencing what women experienced when they first entered the workforce in record numbers—the pressure to “do it all in order to have it all.” We term this the new male mystique. 

 

まぁ、「アメリカはどうか分からんが日本ではまだまだよ!」という主張はあると思います。先のデータにも見られたように家事遂行時間は90年代からあまり伸びていないし、専業主婦やパートタイムワーカー女性を抜いたフルタイムワーカーの女性とだけ比較しても、女性の方が圧倒的に長い時間の家事育児をやっているのが現状。

 「ダブルシフト」という言葉は、85年にホックシールドが提起した言葉で、「仕事を終えて家に帰ってきた後に、二つ目のシフト=家事育児をこなさなければならないこと」を意味しますが、それは日本の現状。そのような女性の状況に比べたら、男性の家事参加なんて「まだまだ」ということにはなるでしょう。(しかし、そもそも競ってどちらがより大変かを決定すればいいというような問題ではないような気もします。)

ともかくも、男性の家事遂行具合には、データ上でも変化の兆しが見られる(ようやく)という話でした。

【議論のための概念整理】「性差別」とは何か:社会科学的な用語としての「性差別」

1.「差別」とは何か
日常語として理解されている「差別」とは、「相手の属性に対する偏見ゆえに、相手を低く評価したり相手をおとしめたり、社会的待遇を変えたりすること」くらいの意味だろうと思います。

ただし、社会科学においては「差別」という語は、もう少し厳密に使われています。①ある属性を有する集団が、②なんらかの具体的な社会的不利益を受けていることが③実証できるとき、それを差別と言う。そして、ある集団の社会的不利益が複数のデータにおいて繰り返し確認されるとき、④社会構造に根ざした社会的不利益が起こっているということを意味します。これを、通常、社会科学では「差別」と呼びます。ここで黒太字にした4つの要件を備えているかどうかが、「差別」概念を適用できるか否かの基準となります。そして、このような「差別」の実態把握を踏まえて、差別を是正するための社会的な対応策(政策)を検討して実施し、それによって社会構造上の属性による非対称性を解消し、不正義を解消することを「社会的公正の実現」(=正義)と言います。

例えば、財の不均等分配(ある属性を持つ集団に対する過少な分配)は「社会的不利益」の最たるものです。ロールズ以降の正義論は、どのような財の分配のあり方が「公正」かということを議論してきたわけで、「性別」という属性によって経済財が少なく配分されているということは、「不正義」に該当します。

また、差別によって被る具体的な不利益としてよくあげられるのは、やはり就職差別と結婚差別でしょうか。これらの「機会の平等」の剥奪は、既存の社会構造(慣習なども含む)によって起こっているので、まさに、どまんなかの「差別」です。これまで、被差別部落差別や人種・民族(エスニシティ)による差別、性別による差別、障がい者差別などが、「差別」として論じられてきました。

 

2.練習問題

差別とは何なのかを考えるうえでの興味深い議論として、90年代から00年代前半あたりの吉澤夏子さんによる「ブス・ブサイク差別はあるのか」をめぐる一連の考察があります。

(例えば、『クィア・ジャパン 魅惑のブス』(Vol.3、2000)での伏見さんによる吉澤さんへのインタビューが分かりやすいので、一般向けにはおすすめです。表紙はまだそこまでブレイクしていなかった時期のマツコさん!)

たしかに、日常生活を振り返ると、ブスやブサイクであるという外見の特徴によって、一定の社会的不利益を受けるという事態が起こっているような気がします。外見の良し悪しによって、周りの人からどれくらい高く評価されるか、どれくらい自分の意見が通りやすいかなどの、人々の社会的待遇(態度)が異なっているように思われるという問題ですね。なんなら、結婚差別もありそうな気がするし、就職差別…はどうだろう?人や職業によっては、顔で落とされたと思う瞬間があるかもしれません。いわゆる「見た目による生きづらさ」問題ですが、これが「見た目差別」や「ブス差別」と呼べるようなものがあるのではないか!?という議論が、当時、盛り上がったのでした。当時は「ブス」ばかりが議論されていたようですが、近年では男性の見た目問題も言説としてあがってきていることをふまえ、「ブス・ブサイク差別」問題とここでは名づけておくことにします。
この問いに対して、吉澤夏子さんは、「ブス・ブサイク差別」は概念として成立しないので「差別」ではないと答えています。先に挙げた4つの要件を満たさないので、「差別」とは言いにくいという話です。
詳しく考えてみましょう。まず、「ブス・ブサイク」に関しては、どのような特徴を持っていれば「ブス・ブサイク」なのかという社会的定義が確立していません。そのため、「ブス・ブサイク」とはどこの範囲の、どの人たちを指すのかということを客観的に把捉するのが難しく、統計上でも特定できない(つまり、人種やエスニシティ、年齢、性別のような「属性」は、客観的に把捉できるのだが、「ブス・ブサイク」という属性は客観的に把捉できるかどうかが難しいということ)。実際、「ブス・ブサイク」というカテゴリーで測定、集計、分析した統計も整備されていない。

そのため、ブスもしくはブサイクであるという「属性」によって(①)、なんらかの社会的不利益を被っているのかどうか(②)を実証することができない(③)。見た目による生きづらさがありそうだし、それが何らかの社会的構造に基づいて(④)起こっていそうなことはわかるのだが*1 、「ブス・ブサイク」であることの社会的不利益が実証できていないので、「ブス・ブサイク」に対する社会的支援策も打ち出せない*2。したがって、社会科学者の中で、見た目による生きづらさ問題を、「差別」と呼ぶ人は少ないということになります。

ただ、今あるデータで技術的に「差別」だと実証できないからといって、「差別だとは言えない」とか、「差別がない」と言っていいのか?という問題がありますよね。これは、重要な問いできちんと受け止めて考え続ける必要があります。

実際、これまでのどの差別是正・撤廃運動も、最初は、世間が全然認めてくれていないなかで、しかし「不当な社会的不利益」を被っていると考える当事者やアライたちが、連帯しながら差別を告発するという形で起こってきました。

性差別に関しても、1970年代からのジェンダー統計の整備というフェミニストたちの仕事の蓄積のおかげで、いま現存の社会構造における性差別を実証できています。「差別」を「差別」と認めさせるために、まずは道具作りから始めねばならなかったということを考えると、そのための地道でコツコツとした仕事には、本当に頭の下がる思いです。

近年は、たとえば「オタク差別」や「非モテ差別」があるのではないかという思いを持っている人もいるだろうと思います。その場合、オタク統計整備や、非モテ統計の整備ができると、議論が一歩進展するということになります。

補足的な議論:「オタク差別」について。たしかに、オタク第一世代とか、宮崎努のあたりとかは、まじで低く評価されていたと言えそうですが、2000年代以降はお上も認める「クールジャパン」の担い手として評価が上がってきているような気がします。ま、それはいいとして、差別を実証できるかどうかについて考えてみましょう。

とりあえず「オタク」というカテゴリーが通用するくらいには、集合体として区別できそうな気はしますね。でも、属性としてどう社会的定義を確定させるか(①)はけっこう難しい問題で、ここが第一の難所です。統計上、オタク集団をどう把捉するか問題。次に、仮に、何とかオタク集団とそうでない集団を比較できるような統計が整備できたとして(例えば、「自称オタク」とそうでない人を区別するとかはあり得ます、近年は自称オタクが増えたのでデータ上の集団としての特徴は見えにくい恐れがありますが)、「オタク」が被っている「社会構造に根ざした社会的不利益」(②)を数字として実証できるかが、第二の難所です。例えば、オタク集団だけが、それ以外の人々や社会的平均よりも、就職率が低い、ソーシャルネットワーキングが弱い、結婚率が低い、貧困率が高い、死亡率が統計上有意に高いなどの特徴があれば、社会科学的にも「オタク差別」があるということが言えそうな感じはしますが、そんなにきれいに数字は出なさそうな予感がします。

そのほか、なにかオタクが被っている差別、すなわち「既存の社会的構造に根差した社会的不利益」として思いつくものありますか? たとえば、「非モテ率が高い」?とかでしょうか。ただ、これも具体的にどう測定するかが難しくて、交際経験率が低いとか、性交経験率が低いとか告白された回数が少ないとかかと思いますが、そもそも現在、若者全般的にこれらの数字が下がっているところなので、「オタク」集団の数字だけが明瞭に低いというようなことはなさそう。補足的な議論、以上。

3.社会科学用語としての「性差別」として、具体的には何が言われてきたのか
以上のような「差別」概念に基づいて言われているのが、社会科学における「性差別」です。この意味での性差別で、いまも明瞭にデータ上確認できており、日常生活への影響が大きい2つのものを挙げるとしたらやはり、これですかね。
ジェンダーペイギャップ 男女間の賃金格差 
「セカンドシフト」 男女間の賃金労働時間+家事育児労働時間を足し合わせた労働時間を見ると、女性の方が圧倒的に長いこと(平均で見たときに、女性の睡眠時間と余暇時間が男性よりも短くなっている)。これを、ホックシールドが女性は賃金労働のあと家に帰って第二のシフトをやっているという意味で「セカンドシフト」と言いました。

他にも、日本の「ジェンダー・ギャップ指数(Gender Gap Index:GGI)」での世界的地位を押し下げている(121位/153カ国中)主要要因の一つである「日本の国会議員における女性割合や管理職における女性割合の低さ」などの問題もありますが。

日本の性別賃金格差が生じている大きな要因は、女性の管理職割合の低さで、賞与や役員手当がつかないため女性の平均年収は、男性のように年齢上昇に即して伸びていきません。それが性別間の賃金格差になっています。逆に言うと、初任給をはじめとする若い時には、そこまで驚くほどのジェンダーペイギャップはないのですが…細かい話に入りますが、若者のジェンダーペイギャップが「ない」ことを意味するわけではなくて、職種によって賃金が異なり、性別の職域分離が現在も明瞭にあるので、その結果、若い時期ですでに女性の方が賃金が平均的に低くなっています。

人々の頭の中にある「性別役割分業意識」社会構造としての性別役割分業制度によって → 性によるライフスタイルの固定化が起こるがゆえに → 男女間での財の不均等配分という不公正・不正義が起こっている(ジェンダーペイギャップやセカンドシフト)というふうに、現在のところ考えられています。

「性別役割分業を緩めていこう」とか「広告における性別ステレオタイプ表象をやめよう」というのは、上記のような過程を想定したうえで、それらは社会の不正義状態を存続させることだからやめようという論理になっています。

言い換えると、性別ステレオタイプ表象がなぜ良くないかというと、性別ステレオタイプに基づく広告が存在することによって、それを見た人々の頭の中にある性別固定的な社会的規範(や社会的期待)が強化される。それは、人々のライフスタイル選択に影響を及ぼし、ジェンダーペイギャップという現在の財の不均等分配の存続をもたらす。縮めると「ステレオタイプ表象は不正義を存続させるよう機能するので、やめた方がいい」という論理になっています。

(時間がなくて、以前に少しだけ言った「セクシズム」とそのままカタカナで使うか、性差別と言ってしまっていいのか問題には、言及できませんでした。)

*1:見た目による生きづらさやそれを引き起こしている社会的構造について:見た目による生きづらさという問題はフェミニズムが問題化し敏感に反応してきたところのものであり、具体的にはルッキズム批判や恋愛至上主義批判などをしてきました。これは既存の見た目による生きづらさをもたらすような社会構造を批判した議論です。上記のように「ブス差別」があるということ統計データとして示すのがテクニカルに難しいところがあったので、「女性差別」の一つとして、これまで議論されてきました。たしかに、見た目による社会的待遇の違いによる生きづらさ(=端的に言えば、結婚できないこと、結婚の機会が制約されることやそれによる自尊心の傷つき)は、90年代中盤くらいまでは女性が被ってきた問題でした(それに対して、男性は、見た目による生きづらさ問題よりも、経済力がないと結婚その他のあらゆる社会的ネットワークから排除されがちという別の生きづらさ問題の方が深刻でした)。しかし、現在は、「非モテ男性」問題という言説に見られるように、見た目による生きづらさは「女性」だけに限られなくなってきた感があります。「男性の非モテ」問題は、①10代後半以降の性欲が満たされない問題と、②世代間格差の拡大による、20代男性への経済財の過少分配の問題が絡んでいて、純粋な「見た目」の問題ではない部分も大きいのですが。

*2:*「ブス・ブサイク」に対する社会的支援策について:例えば「ブス/ブサイク」というカテゴリーの人への「支援」に限定しない、より広いカテゴリー(例えば「若者」)に対する「結婚斡旋事業」(ちなみにこれはやるとしたら、かなり慎重にやるべきですが)や「結婚資金支援事業」(これはより充実させていくべき)などは考えられるが、「ブス・ブサイク差別の是正」のための社会的政策というようなものは構想しにくい。

赤十字はどういう若者向けポスターを作ってきたのか

#シンこれフェミ 当日に使うかもしれない参考資料たちです。

1.赤十字社とオタクの関係に関する全体的なざっくりした流れ

日本では、1969年に売血が終了。以降、日本では売血は禁止。
献血の「記念品」として、クオカードや図書券が渡されていた時期もあったが、2002年の「安全な血液製剤の安定供給の確保等に関する法律(血液法)」に抵触するとして、現在金券を渡すことは行われていない。

以下、日本最大規模のイベント「コミックマーケット」での献血活動|もっとクロスメッセージ|血液事業|活動内容・実績を知る|日本赤十字社から引用しますと、コミックマーケット準備会と赤十字社の協力が始まったのは、1997年の冬コミから。

2011年コミケット81(C81)からコラボグッズ制作を開始。

コミケット82(C82、2012年夏)からは、開催期間に連動して会場外の都内献血ルームにて献血応援イベントが行われるように。

2012年冬のコミケット83から千葉県、2013年夏のコミケット84からは、埼玉県・神奈川県の各血液センターも、この献血応援イベントに参加。

ちなみに、1975年にコミックマーケット第1回(C1)開催。

1995年のC51から、コミケに企業ブースが出展されるようになった。ご存じの通り、このときには様々な反発反論があった(オタク文化を企業に売り渡すのか!オタクは商業主義に加担するのか!的な)が、その後も企業ブースの出展は継続・拡大している。

 

2.

ところで、オタク効果(オタク層が献血にどれくらい貢献しているのか)をどう測定するかという問題がありますが、オタク層の貢献度を特定できそうなデータはざっと見た感じ見つけられませんでした。かつて、すももさんが、宇崎ちゃんポスター炎上があった2019年10月(か11月)に首都圏で、献血量が前年比で見て増えているというデータを載せていたような記憶がありますが、2018年も冬コミに向けたポスターは作っているわけで(C95献血応援イベント|株式会社シーエージェント)、これら7作品よりも、宇崎ちゃんを含む計8作品(C97献血応援イベント|株式会社シーエージェントの方が、献血者数を増やす効果があったと結論づけることはちょっと難しいと思います。

というか、それを言い始めると、「なに?『魔法少女特殊戦あすか』よりも、『宇崎ちゃん』の方が人気が高かったというのか?!」というような、別の戦いを引き起こしかねない…(つまり、データ解釈として幅がありすぎるところを無理に解釈確定させようとしているので、そういう余計な戦いを引き起こしかねないということになります)。

「宇崎ちゃんポスターが炎上したから、それに不満を持ったオタクさんたちが献血ルームに押しかけて献血した」(?)ということが大規模に起こったということが考えにくい事柄である以上、宇崎ちゃんポスター炎上効果で献血量が増えたという解釈は成り立たない。

*ちなみに、日本赤十字社関東甲信ブロックや日本赤十字社東京都赤十字血液センターは、オタク向けポスターの図柄を自分のとこのHPには載せないという方針をとっているようなので、赤十字社コミケの間に入っている代理店であると思われる(シーエージェントさんのHPを引いています)。

以上より、オタク層がどれくらい献血量の増加に貢献しているのかは測定しにくい問題です。ただ、若年層の献血者数がすごい勢いで落ち込んでいる中で、コミケ会場や各地の献血ルームでのオタクさんたちによる献血協力がなければ悲惨なことになっていたに相違ないということは言えると思います。

・以上のような問題に関して、こういういいデータあったよ!ということを見つけた方はぜひ教えてください(このブログのコメント欄に書き込んでください)献血量関連に関してはけっこう詳細で膨大な量のデータが公開されているので。(「速報値」みたいな形で、素早く公開されてもいます)

 

献血量の推移の概要が分かるのは、ここらへんですかね。

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年代別献血者数と献血量の推移(厚生労働省 https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/0000063233.html

平成30年(2018年)に、50~69歳代で献血量がぐっと増えている。いったい何があった?(調べ中)

若い世代では、平成18年(2006年)を底にしてそこから増えている。2007年あたりから一体何があったのだ? (献血関連って知らないこと多いが、「社会」を論じるための題材として面白そうな感じがしてきました)

 

3.若者向けキャンペーン1

赤十字がやっている若者向けキャンペーンは、「はたちの献血キャンペーン」と、コミケに合わせたオタク向けキャンペーンです。

2018年は広瀬すず 

2019年は、

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二十歳の献血(2019年)乃木坂46
羽生結弦選手のときもあった。

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という感じ。 

 

4.若者向けキャンペーン2

で、オタク向けポスターとしてどういうものが作られてきたのかを、調べられる限り調べ、個人的に面白かったものを並べます(分析するとなればちゃんと一覧表作りますが、ここで全部紹介できないし、というわけで)。

ユーモアあふれるかなりいい作品がたくさんあって、いい仕事しているなぁ!ですよ。あと、めっちゃ自由やなーっていう。基本的に、私は赤十字のオタク向けポスター好きです。自分が知っていたり好きだったりする作品も多いっていうのも関係してることは間違いないが。

まず、セイバーのこれ、超かっこいい。王道。これはほしかった。

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赤十字献血ポスター例

そして、fate/zeroのジル・ド・レイを知っている人は、このポスターは「めっちゃこわい(面白すぎる!)」ってなるやつ。でも、ジル・ド・レイを知らない人は、ただたんに「あ、怖くないってことを言っているポスターなんだな」と受け取れます。オタク向けキャラポスターのお手本のような作品ですね!(ほんとか?そう言い切っていいのかは要検討w)。

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2019年献血ポスター例

 

のうりんはこういうかんじに、公共空間に貼るポスターと、献血した人だけがもらえるしおりとを使い分けています(コミケ会場の献血所にて献血を行うと、ポスターセットがもらえるとのこと)。このバランスは上手だったのでは。

つまり、このポスターなら問題なしでは?フェミニストの皆さん。

私は、左のポスターだったらギリギリセーフだと思うよ(その判断基準なにっていうのをできるなら明らかにしたいけど、それはマンガ・アニメ表象の専門家じゃないとムリでは…っていう気がしてきている今日この頃)。

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献血ポスター例
しおり拡大。しおりの方がポスターになってたら、ま、多少のクレームが来ることは覚悟せなあかんやろなーみたいなかんじか。
 
もっと前のを見てみると、

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2016年冬コミ(C91)

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C93

もう、たくさん見てるとよくわからなくなってくるけど、『ViVid Strike! 』の方は、米国人の方に「ペドフィリア疑い」をかけられたら守り切れない(反論しきれない)かんじがするのでダメそうなかんじがしますが、『なのは』は全然OKな感じがします…(ただ、前提条件として、私は『なのは』は見たからよく知っていて、『ViVid Strike! 』の方は知らないのですよ。だから、その前提知識があるかないかによって判断がぶれているのかもしれません。)

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C94

もう、かわいいからいいような気もしてきましたが、「幼女をエロティックに描いた絵ですよね?」 と言われたら否定できない…という意味で、ダメということになるのだろうと思われます(そうなのか?うーん、もうゲシュタルト崩壊を起こしていてよくわからない)。

でも、こういう方向性以外にもいろいろあり、多様性に富んでいて、面白いのも多いです。例えば、こういう系統とか。

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上記出典情報あとで追記します。すいません(≧0≦)

 

それから、宇崎ちゃん第1巻の表紙も載せておく。

 

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宇崎ちゃん第1巻表紙