ポストフェミニズムに関するブログ

ポストフェミニズムに関する基礎文献を紹介するブログ。時々(とくに大学の授業期間中は)ポスフェミに関する話題を書き綴ったり、高橋幸の研究ノート=備忘録になったりもします。『フェミニズムはもういらない、と彼女は言うけれど :ポストフェミニズムと「女らしさ」のゆくえ』(晃洋書房、2020)、発売中。

こういうジェンダー論の教科書がほしい 

ジェンダー論の教科書として、こういう論点がまとまっているものがあればいいのに、と思っていたのだけれどなかったので、自分でレジュメつくった。(2019年度にやった「身体文化論」の授業レジュメのいくつかを公開します)
1.売買春をめぐる現在の世界の社会政策のながれ。とくに後半のオランダモデル(売買春の合法化)/北欧モデル(買春の犯罪化)が、EU圏内の人の移動の活発化の中で何をもたらしているのかという論点は、けっこう重要だと思うのだけれど、日本語文献でそこらへんを、政策の観点から、詳しく論じている文献を見つけることができなかった。ので、調べられる限りで調べ、あとは論理的に推論できる限りで喋った。(→「身体論 売買春 第9回」)知っている人がいたら、ぜひ色々教えてください。
 
2.人工中絶をめぐるキリスト教アメリカでの議論と日本での議論を対比的に論じる議論。人工中絶の権利については、アメリカと日本では扱われ方が全く異なっているがゆえに講義の話として面白いだけでなく、「女性の身体」がどのようなポリティクスに巻き込まれているのかを知るうえでも重要。
 アメリカでは、人工中絶の権利が政治問題化し、2000年代以降でさえ国を真っ二つに割る論点になっているのはよく知られていることだが、なぜそういう事態になったのかを1970年代から80年代の経緯を追いながら考えていくことは、重要だと思う。
 また、同じ「人工中絶」が、日本では全く異なった形で受け止められ、異なった政治的対立構図を形成してきた。日本の保守派はアメリカほどの大きな反対運動を形成せず(宗教や習俗によるものだろう、っつーか、ピル認可には異常に厳しいのにね)、人工中絶を女性の自らの身体に関わる権利だとする女性団体への反対勢力となったのは障がい者団体だった。「出生前検査による選択的中絶は障がい者の存在を否定するものだ」というのがその主張。このように女性と障がい者団体という、社会的弱者が互いを潰しあうような対立構造になったときには、この対立によって一体誰が得をしているのかを考えることが重要。この運動史からは、現在の我々も学ぶべきことが多い。
 「選択的中絶が障がい者の存在を否定するものだ」という主張と、中絶は女性の自らの身体に対する権利だという主張の対立を調停する一つの方法は、

・健康な子を持ちたいという親の感情、そのための技術へのアクセス権の要求と、

障がい者が差別されずにこの社会で生きていく権利の要求、

この二つの権利を同時に実現する社会政策のあり方を、女性団体と障がい者団体が手を携えて要求していくということだと私は思っている。(→「第10回 人工中絶 身体論」)

  どちらもけっこう政治的な話題だけど、すでにこれらに関する学術的研究の蓄積はかなりあるので、きちんと文献を引いて整備して慎重に書けば、書けない問題ではないと思う。

 社会科学としてのジェンダー論の面白さは、ジェンダーに関する或る社会問題ジェンダー関連の問題は、多くの場合、人々の身体や習俗や習慣や常識に直結しているものであるがゆえに、人々の感情を逆なでするようなものであることが多いのだが)を見ていくことで、その問題を構成している「社会」が見えてくるというところにある。

 例えば、1では、徹底して制度の話(売買春に関する法の変遷とか)をしているのだが、それを見ていくことで、なんだかこうオランダ(ドラッグも一部合法だし、売買春も合法で、ハームリダクションの思想で一貫している、リベラリズムの最先端)/北欧(買春を犯罪化するという男女平等主義の最先端)というお国柄のようなものがくっきりと見えてくるし、それがEUという「グローバリズムの最先端」の中でどうなっているのかを具体的に考えることもできる(通常、例えば日本とかが買春の犯罪化をしたら、アンダーグラウンド化してさらにやばくなるというのが目に見えている。なぜ北欧でそうならないのかというと、ここにはEU圏内で移動しやすいというのが効いているのではないか。つまり、本当に買春したい人はオランダに合法的に買春ツアーに行っているのでは?というのが私の推論なのだが、どうなのだろうか。だれか専門家、教えて!)。

 2を見ていくと、キリスト教国/日本という宗教的・文化的特質がみえてくる。宗教による違いはもはや個人レベルで比較してもあまり見えてこないけど、社会レベルで比較すると、その社会が持っている経路依存というのかなんというのか、社会にはその社会固有の思考パターンみたいなものがあるなぁということが、ちらっと見えたりする。「お国柄」みたいな話は、ちょっと世俗化しすぎた(大学生ウケを狙いすぎた)話ではあるが、社会科学としてのジェンダー論の面白さは、このようにジェンダーを見ていくことで「社会」が見えてくるというところにあるんじゃないかと、社会学者の私は思ったりしています。

 というわけで、ジェンダー/セックス概念の区別とかも、重要なんだけど、もうそれはポストモダンフェミニズム脱構築した話でもあるし、現代のジェンダー関連の社会政策の変化(官製フェミニズムと言われているものや、EUの官僚フェミニズムベルベット三角同盟)と言われているようなものも含めて)、女性運動のNPO化の概観とそれをどう受け止めどう評価していけばいいのかなどについて、領域横断的にまとまっている教科書が欲しいなぁと思っています。
  一人で何もかもの領域の動向を勉強し、レジュメを作るのは大変。だけど、喋るべき領域の社会政策は多い。だから、教科書ほしいという話でした。
 
 
 
 
 
 
このレジュメたちについて
 私は、鷲田清一とか西村清和とかを読んで大人になった人間なので、「身体文化論」のお話を頂いたときは「ぜひやりたい!」とすぐに引き受けたのですが、開講している大学自体がそんなに多くなく、定番の教科書のようなものもなく、授業構成はけっこう苦労しました。結局、ジェンダー論も混じった感じの構成になりましたが、それはそれでよく、全体としても充実したものになったとひそかに自負していたりします。
 実際、授業をやってみて、やっぱり「身体文化論」という開講科目はすごく重要だという気持ちを強めました。「身体文化」に関する学生さんの食いつきも良かったです。私がやらせてもらった某大学は、なんというのですか、こう良い意味で文系エリート意識が強い人が多く、また多様な学部学科の人が受講できる科目だったので、多様な観点から「身体文化」の話を聞き、考え、意見してくれたり、レポートを書いてくれたりし、私が予想していなかった角度からのコメントがけっこうあったので面白かった。
 この授業は、サバティカルでお休みの先生の代講で、当初から1年だけ担当の予定だったので、このレジュメたちは今期はもう出番なしです。すでに自分でもいくつかミスを見つけており、問題はあるのですが、修正しつつ、ずっと使い続けたいレジュメでした。まぁ、またどこかで今後、使えるときも来るでしょう。今期は「家族社会学」担当が多いから、がっつり使うことはできなさそうだなぁ。
 身体文化論を担当することになった方や、身体文化論に興味がある方、あと、この記事の主旨でもあるジェンダー論関連に興味のある方(とくに、私同様に、ジェンダー論という大学の授業で喋るべきは、男女平等社会を作りましょう、◯◯は女性差別ですという道徳ではなく、ジェンダーをめぐる社会政策の話であり、領域横断的にがっつりそれを喋ることが重要なんだよ!と思っていらっしゃる方の、お役に立てればいいなぁー(自分が検索した時に、こういうのをまとめてくれている人がいたら、ありがたかったな)とという気持ちで、ミスがあったりして恥ずかしいところもありますが、公開します。
 ご使用のさいには、一応、念のため、コメント欄にその旨、書き込んでいただけると助かります。
2020年3月31日記
 

日本の唯物論フェミニズム(マルクス主義フェミニズム)受容の盲点:ヘテロセクシズム批判という文脈の抜け落ち

 マルクス主義フェミニズムとは、1970年代から80年代に登場してフェミニズム理論を形成した一つの思想潮流で、「性支配」の物質的基盤(下部構造)の分析を重視する立場を特徴とする。物質的基盤(下部構造)分析は、おもに経済学的・政治的制度の分析になるが、経済学者や政治学者でなくてもできる(やることが許されている)そういう一領域である。

 マルフェミといえば、日本では上野千鶴子さんの 『家父長制と資本制:マルクス主義フェミニズムの地平』(1990)が有名で古典とされてきました。改めて読み直してみると、上野さんは、セクシュアリティの問題を「家父長制」として論じていて、ヘテロセクシズムとかヘテロノーマティビティの問題だとは捉えていなかったということに気づきます。

 そのことは、引いている文献にも反映されている。上野さんはおもに以下のような文献を引いてマルフェミを紹介し、議論している。

●クリスティーヌ・デルフィ(1970年代のフランスの女性解放運動(MLF)を牽引、その後もフェミニズム思想家としてけっこう活躍)の1984, Close to Home: A materialist analysis of women's oppression, London, Hutchinson, & The University of Massachusetts Press,  (=『なにが女性の主要な敵なのか ― ラディカル・唯物論的分析』井上たか子, 加藤康子, 杉藤雅子訳, 勁草書房, 1996)ちなみに、デルフィ自身はレズビアニズム運動にもコミットしている。

ジェンダー平等の測定とかを実証的にがっつりやる系のSylvia Walby(イギリス)。1986, Patriarchy at Work: Patriarchal and Capitalist Relations in Employment, 1800-1984,  Polity Press.

●それから、マルフェミと言えば、今でもこの人な感じがあるHedi Hartman(英語圏の経済学者)。

 ●英語圏の文学系(専門はヴァージニア・ウルフフェミニストMichelle Barrett,  1980, Michele Barrett. Verso. Women's Oppression. Today. Problems in. Marxist Feminist Analysis.

https://genderstudiesgroupdu.files.wordpress.com/2014/07/womens-oppression-today-barrett.pdf

(大貫学さんが、ミッチェル(1974)が、ラディフェミの「家父長制」概念をマルフェミに持ち込んだと紹介していたような記憶があります。)

●あとAnnette KuhnとAnnMarie Wolpe編の本(1978)で、これは、上野さん自ら翻訳してますね。(『マルクス主義フェミニズムの挑戦』 (1984年、上野 千鶴子訳)

 

(資本制と家父長制の二元論/一元論論争については、今度詳しく書くので、ここではちょっと置いておきます)

 

それに対して、ハラウェイの『猿と女とサイボーグ』(1991=2017)に収められている「第7章 マルクス主義事典のための「ジェンダー」:あることばをめぐる性のポリティックス」や、バトラーの『ジェンダー・トラブル』(1990)では、マルフェミの一環として、 

●セックス/ジェンダーシステムを提唱したゲイル・ルービン, 1975,The Traffic in Women Notes on the "Political Economy" of Sex や

https://summermeetings2013.files.wordpress.com/2013/04/rubin-traffic.pdf

 

●モニク・ウィティッグ, 1981,  “One Is Not Born a Woman“ .

 

アドリエンヌ・リッチ, 1980, Compulsory Heterosexuality and Lesbian Existence 

http://www.posgrado.unam.mx/musica/lecturas/Maus/viernes/AdrienneRichCompulsoryHeterosexuality.pdf

が共通して引かれており、レズビアニズムによる革命(親族体系構造の変革)の議論がマルフェミの一つ(親族体系の物質的基盤を分析したもの)として想定されている。

 つまり、欧米のマルフェミの議論では、セクシュアリティを通した「男性による女性の性支配」というのは、「家父長制」(パトリア―キー)の問題であり、かつヘテロセクシズムの問題として議論されてきたのだが、

日本に輸入されるときには、「家父長制」だというところだけが入ってきて、それに張り付いてセクシュアリティに関する深い分析をしてきたヘテロセクシズム批判のところはうまく入ってこなかったのではないか。

 ちなみに、私は、この点に関して上野さんに非はないと思っています。というのも、上記論文タイトルを見ればわかるように、マルクス主義フェミニズムの「マ」の字も入っていないわけで、議論の渦中にいなければ分からなくても仕方ないと思えるからです。

 

本日の知見:ヘテロセクシズムの唯物論的分析は、マルフェミが1970年代からやってきてるよ。

 

最近、『ジェンダー・トラブル』(1990)と『猿と女とサイボーグ』(1991=2017)と、ブライドッティの『ポスト・ヒューマン』(2013=2019)を3つ並べて読み、ポストモダンフェミニズムの何を継承してどう発展させていくべきなのかについての論文を書いているところです。その勉強の一環で気づいたので、書いときました。それにしても、バトラーの『ジェンダー・トラブル』と『家父長制と資本制』って、同じ1990年刊行なのだね。なんか感慨深い。

 

ポスフェミ基礎文献:三浦玲一(2013)について

三浦玲一, 2013, 「ポストフェミニズムと第三派フェミニズムの可能性:『プリキュア』、『タイタニック』、AKB48」, 三浦玲一・早坂静編著『ジェンダーと「自由」:理論、リベラリズム、クイア』彩流社: 59-79.

 

1.「新しい左翼」の模索の延長線にあるポストフェミニズム

 三浦玲一先生の上記論文は、現在のポスフェミ関連論点がほぼほぼ入っているといっていい、すごい論文です。(もちろん、分量は一般的な論文サイズなので、論点が萌芽的に入っているというような意味です)

 これを読むと、ポストフェミニズムの議論が、冷戦後の新左翼の行き詰まりという議論の延長線上に出てきたものだということがよくわかります。

(冷戦後の)「(新左翼に代表されるような)左翼的な想像力全体の変容――それはつまり、現状に対するオルタナティヴをどのように想像するのかという想像力全体の変容でもある――のなかに第二波フェミニズムからポストフェミニズムへの移行はある。逆に言えば、この状況を如実に象徴しているからこそ、ポストフェミニズムを十分に踏まえながら、フェミニズムの未来を想像することには重要な意味がある」(三浦 2013:67)

 新自由主義政権(とくに、三浦のいう「第二期新自由主義政権」であるクリントン、ブレア、小泉以降)が「変革」や「革命」のレトリックを用いて統治を進めている現状において、左翼はどのようなオルタナティヴを提示していけるのか?という問題系のなかで、連帯による社会変革を目指した第二波フェミニズム(=新左翼的なもの)の失効を指し示すのがポストフェミニズムだというのが、三浦先生の議論の枠組みになっています。

 

2.新自由主義を下部構造とする「文化」としてのポストフェミニズム

 三浦(2013)は、基本的にポストフェミニズムというのは、90年代の「文化」であると規定しています。

「ポストフェミニズムは、このような時代状況(=新自由主義)における「文化」としてある。それは、女性の社会進出の達成を象徴すると同時に、社会運動を重視する連帯の精神としての第二波フェミニズムを批判し、市場における達成を重視して個人主義を称揚するものであり、政治的改革ではなく自己実現と「私探し」こそをゴールとする「文化」として広く受け入れられたのである。」(三浦 2013:66、()は引用者による)

 引用文中「このような時代状況」とは、前段落の「冷戦の終焉からグローバル化という流れは、社会主義の終焉という一般の認識に帰結し、そして、新自由主義グローバル化時代における必然として承認されたのである」を指しているので、ひとことで言えば、「新自由主義」。

 カギ括弧つきの「文化」には、新自由主義の「偽文化(quasi-culture)」というような意味合いが込められているのではないかと推察できます。というのも、次の引用箇所を見ると、新左翼の「オルタナティブを想像しようという文化的な運動」の文化にはカギ括弧がついていないので。

「既存の社会に対するオルタナティヴを想像しようという文化的な運動、つまり、60年代の移行の新左翼的な(そして第二波フェミニズムもその影響下にあった)学生運動やヒッピー・ムーヴメントが、結果として、新自由主義に簒奪された」(2013:66-67)

 新左翼の文化には「」がついていないことから、新自由主義の「文化」は偽文化だというような意味が込められています。 …と思いましたが、同論文内で、新自由主義の文化と述べている箇所で、カギ括弧がついていない「文化」という記述も発見してしまいました。

「ポストフェミニズムの特徴は、日本で言えば、1986年の男女雇用機会均等法以降の文化だという点にある」(2013:64)

「このようなポストフェミニズムの誕生は、同時代のリベラリズムの変容・改革とかなりはっきりとつながっている。それは、バジェオンやギルも指摘するように、新自由主義の誕生であり、新自由主義の文化の蔓延である」(2013:64)

 というわけで、文化はカギ括弧なしでもよいのかもしれません。ともかくも、ポストフェミニズム文化として捉えられているということは確実そうです。

 ここから、ポストフェミニズムという議論は、マルクス主義知識社会学的な枠組みに基づいて、ネオリベラリズムを下部構造とする文化(上部構造)として展開されていると、まとめることができそうです。

 菊地夏野さんの『日本のポストフェミニズム』(2019)でも、第1,2章でネオリベラリズムが論じられ、第3章以下でポストフェミニズムと見られる文化現象についての研究がされていました。下部構造が変化したのに伴って、文化状況も変化しており、フェミニズムの位置づけや意味も変わってきているという議論をしているのが2000年代後半以降のポストフェミニズム論だといえます。

 まとめると、

 

 上部構造:家父長制

 下部構造:世界大戦後の福祉国家体制+公私二元論を前提とする資本主義

    ↓

 上部構造:ポストフェミニズム文化の蔓延 

  下部構造:ネオリベ

 

 ただし、知識社会学的な議論に対して、上部/下部の二元論は妥当なのか?本当にそんなにきれいに切り分けられてているものなのか?という批判的(反省的)思考は、現代の思想状況の中で思考していれば否応なく働きます(二元論を疑うのは脱構築の基本、みたいな意味で)。

 なので、ポストフェミニズム論は、「文化」を扱いつつも、それが女性の労働とどうかかわっているのかという「労働」とジェンダーという問題系へと発展していくという傾向があります。三浦(2013)論文も、後半は、労働とジェンダーの問題になっている。

  ・ちなみに私は、政治経済体制(下部構造)/文化やイデオロギー(上部構造)というマルクス主義的-知識社会学的な議論の構図をズラす別の方法として、社会学的古典の一つであるジンメルの個人レベル/社会レベルという枠組みで分析してみるというのがあるのではないかと思っています。ジンメルマルクスを知りつつマルクスに抗して個人/社会という分析レベルを立てているので、現代において再度ジンメルの試みに立ち戻り、その分析枠組みを使ってみると、案外面白い結果が導出されるかもしれない(個人的には個人/社会という二つの水準での分析は、とても重要だと思っていて、思い入れがある)と思ったりもしているのですが、それについてはまた今度、詳しく書きます。

 ・ちなみその2。私は、ポストフェミニズム論でよく使われている「福祉国家から新自由主義ネオリベラリズム)へ」という枠組みはあやしいような気がしており、経済学や福祉社会学ネオリベラリズム分析を詳しく検討して議論を展開したいと思っているところです。が、これがね、誰もが予想することだと思うけど、大変でねぇ。まだ勉強不足なので、その全体を示すことはできないのですが、とりあえず私は「福祉国家からネオリベラリズム」とは言わず、第二次世界大戦後に形成された福祉国家の「新自由主義的再編成」と言うようにしています。現代でも福祉国家という理念(とそれに基づく国家の正当性という信念)が手放されたわけではなく目指しつつも、緊縮財政とか税制改革とかやって、痛みを一部の人に押し付けたりしながらやっているという状況なので、「福祉国家新自由主義的再編成」です。

 

3.新自由主義において女性は「特権的な記号」?

 私は、この論文のなかで、一点だけうまく理解できていないところがあります。それは、新自由主義においては女性は「特権的な記号」になっているという議論です。本当に、「特権的な記号」という概念化でいいのだろうか?という疑問があります。(たぶん私の脳が「特権」という概念に反応しすぎていて、うまく理解できないだけかもしれないのですが)

「女」は新自由主義下における労働者の特権的な記号であり、そして、特権的な記号であるとは、「女」が優遇されるということと同時に、新自由主義経済の矛盾は、「女」という記号において集約され、かつ、正当化されるという意味でもある。(三浦 2013:75)

 「特権的」は、以下では「規範的・象徴的」と言い換えられて説明されています。おそらく、「規範的・象徴的」と言った方が良い。

新自由主義の世界において、規範的・象徴的労働が男の労働から女の労働になった。(三浦 2013:70)

 新自由主義的な政治経済下で、サービス産業が増えたとか、感情労働を必要とする対人関係労働が増えたというようなことを指して、「労働力の女性化」が起こったといえるということは、なんとなく雰囲気としては理解できるのですが、色々とはてなマークも浮かんでいます。

 例えば、サービス産業や、対人労働や、感情労働や、外注化されたケアワークなどをすべて一緒くたにして「労働の女性化」と言ってしまっていいのか? それに「女性」という概念を使うのが的確なのか?何らかのアナロジーとしてしか機能しないのではないか?といった点についてもう少し考えてみたいと思っているところです。

 三浦(2013)の議論が、

ジェンダー化され、女性を「特権化」しているかを指摘しつつ、その性差別をどのように突破していくかが示される必要があるだろう。」(三浦 2013:72)

 に見られるように、新自由主義下の労働が「女性化」することで、女性労働者が矛盾した状況に置かれ、これまでとは違う性差別状況に直面しているという問題をあぶりだそうという射程を持つものだということは理解しているのですが、色々とデータをそろえ、詳細に検討したうえで議論すべきことも多い論点なので、この点については、私自身、もう少しゆっくり色々考えてみたいと思っているところです。

 

ANTや新唯物論によって、社会学理論はどう更新されうるのか:その方向性について

1.
 新唯物論とかANTとかをざっくり読みつつ思っているのだけれど、考えるべきは、これらを社会学に持ち込むことで、社会学理論はどう更新されるのか?だ。
 例えば、主体/社会構造が循環的にお互いを構成しているというギデンズ流(構造化理論)の「主体/社会構造」二元論が、ズラされたり更新されたりするのであれば、ANTを言う意義(社会学理論的意義)はあると思う。
 が、ただたんに「社会記述のさいに『もの』も記述しよう、人間がものによって動かされていることにも注意を払おう」という話だったら、アーキテクチャとか各種デザイン(空間デザイン、コミュニケーションデザイン…)とか、アフォーダンスとかで、すでにやられてきたことだし、別にわざわざANTっていう必要なくない?という気がする。
 たしかに、一部の領域では、人間-非人間の異種混交性に着目して社会を記述することで、今まではできなかった新しい社会記述ができるようになる可能性はある(例えば…ってまだ勉強不足なのだけれど、バイオテクノロジー社会学とか、環境人文学や環境地理学と連携した社会学とか、モビリティの社会学とか…?)。
 しかし、それはたぶんごく一部。本当に社会学全体において、構築主義社会学において重要なものとなったのと同程度に、新実在論とか新唯物論とかANTとかが重要で、多くの社会学者が参照すべきものなのかどうかについては、冷静に考えてみるべき。
 
 例えば、人というアクターと「もの」というアクターを同列に記述するだけだったら、マックス・ウェーバーの理解社会学の枠組みでもできそうだよ、それを越えるようなANTの意義って何なの?というような社会学の古典を踏まえたきちんとした議論は、必要だと思う。
 
「機械をはじめとする一切の制作物は、その製造や使用に人間の行為が――実に様々な目的のために―ー与えた意味、または、与えようとした意味を考えて初めて解釈も理解も可能になるものである。意味へ遡らなかったら、機械は全く理解することができないであろう。つまり、機械のうちで理解可能なのは、手段としてにせよ、単数あるいは複数の行為者の念頭にあって行為の方向を定める目的としてにせよ、とにかく、機械と人間の行為との関係である。」(マックス・ウェーバー社会学の根本概念』清水幾多郎訳、岩波文庫、初版1972:13)
 ウェーバーのこの記述のどこかに、「機械による偶然的な意味の発生」のような一説を付け足せばいいだけなのだとしたら、大騒ぎして、ANTだANTだという必要はない。
 
 で、私の立場はどうなのかと言うと、マテリアル(物質、もの、身体)に着目しますという現代の潮流は、主体/構造の二元論でやってきた社会学理論モデルを更新できる可能性があるのではないか、だから、ANTや新唯物論はけっこう大事だと思う!という立場。笑。えぇ、ぜんぜん冷静じゃなくて、盛り上がっているんだけど、論理的に説得的な冷静な議論が必要だよなと思ってはいる、という話です。
 
2. 
 とくに、ジェンダーフェミニズム論は、主体か社会構造かという二元論の中で議論を組み立てることの限界(説明力不足)というのが見えやすい領域だったと思います。
 例えば、人間の外見美を評価する尺度は、既存の社会(=ラディフェミ風に言えば「男性社会」)が作り上げて女性に押し付けたものなのか、それとも女性主体が作り上げたものなのか、という問題。英米の70年年代、日本の80年代のフェミニズム理論では前者が力を持っていましたが、90年代に入り、男性が求める以上に痩せようとする摂食障害摂食障害の患者の男女比はおよそ1:9)や、「自分のために美しくなりたい」と言って主体的に美容整形手術を受ける女性の可視化とともに、後者の契機もあるということが言われるようになり、議論は膠着状態に陥りました。つまり、美の尺度は男性社会が作り上げたものであるか、それとも女性主体が望むことで作り上げている尺度なのかという問いに対して、どちらが正しいとも答えられない状態になった。
 こういうときは、問い自体が間違っているのではないかと疑った方がよいと思われます。
 
 ちなみに、パーソンズ社会システム論に基づけば、既存の社会構造が作り上げた美の序列を、女性主体が「学習」(文化システムの社会システムへの影響)し、「内面化」(文化システムのパーソナルシステムへの影響)したものだという説明の仕方になります。だが、パーソンズのこのような説明形式は、文化システム至上主義という批判を浴びたので、そこを修正して発展させたギデンズの構造化理論では、男性社会が作り上げた美の尺度によって、女性主体が主体化され、その主体がさらに美の基準に則った行動をしたりそれを批判したりすることを通して新たな社会の美の尺度(=構造)を作り上げている、というふうに、社会構造と主体が循環的にお互いを構成しあうことで、社会は変化しているという説明の仕方になりました。
 ギデンズの話は、論理としては通っている。美の尺度は男社会が作ったものでそれを女性に押し付けているのか、それとも女性主体自身が望んで形成しているものなのか、どっちなのか?という問いに対して、「どちらも正しいです。互いに循環的に形成しているので」というのがギデンズの答え。ま、たしかにそういう「うまい答え方」はあるよね。しかし、私はこれは説明力不足という問題を抱えているという点で、やはりそろそろ更新されてもいいんじゃないかと思っている。
 どういうことかというと、ギデンズの構造化理論の説明では、現代の女性たちの「美をめぐる実践」(日々自分の顔に関して悩んだり、カバーしようとあれこれ試したり、あの人が私にこんなことを言ったのは今日の私の服装が女の子っぽぎて威厳に欠けたからなのだろうかとか見当違いなことを考えたり、今日はデートなのでまゆは薄めで(うふふ)、みたいな色々な実践)が、一体何をしていることになるのかについて、ちゃんと社会学的に説明できているという感じがしない。「社会構造」とはこの場合これこれを指しており、構造はこのように細分化できて、とか「主体」とはこういうことでというふうにより細かく説明していけば、私たちの日々の美をめぐる社会的実践を説明できるような気もあまりしない。
 美は、魅かれちゃうものだし、気になっちゃうものだし、気にせざるを得ないという形で強制されるものでもあって、もちろん主体的にコミットしている側面もあるけど、そうじゃない側面も多い。それを「主体」という語でくくってしまうことで見えなくなることはけっこうたくさんある。同様に、美の尺度や「社会構造」ってそもそも何?美の画一性とか規範性とかがとりあえず批判的に言及されることが多いけど、美ってそういう話に収まるものではないのでは、という大きな問題がある。
 
 
3.
 ジェンダーフェミニズム論における「主体か構造か」の二元論の行き詰まりを明晰に書いている論文として、
 
西倉 実季, 2005, 「美」を論じるフェミニズムの課題―二元論的思考を超えて , 『F-GENSジャーナル』 4 61 - 67. (これは、インターネット上で検索すると読めます)
西倉実季, 2003, 「ミス・コンテスト批判運動の再検討」, 『女性学年報』24 21 - 40. 
西倉 実季, 2003, 「ジレンマに向き合う―外見の美醜を語るフェミニズムのために」, 『女性学』 10 130 - 150.
 
があります。
 
西倉(2005)では、私が上記で整理した美についての議論の展開を、
「80年代後半までに獲得された「抑圧としての美」というパースペクティヴと、フェミニズムへのポストモダニズムの導入以降に主流となった「規律実践としての美」」(要約より引用)
 というふうに整理しています。男社会によって美の基準が作られたという美のパースペクティブを「抑圧としての美」、実は女性自らが美しくなることを主体的に求めているという美についてのパースペクティブを、それは女性に対する規律権力が働いているのだという解釈に基づいて、「規律実践としての美」と呼んでいます。すごくいい概念整理ですよね。
 この議論を踏まえると、2010年代以降の我々は、いったい「何としての美」の中を生きさせられているのでしょうか。(誰かいい用語を思いつく人いたら教えてください。)かつて、私はある研究会で、「2000年代から2010年代の新自由主義の中で、女性たちは、自分に自信を持つために美しくなることを目指すという、『エンパワーメントのための美』を生きさせられているのだ」と言ったら、自分としてはけっこう的を得た、これ以外ない良い表現だと思っていたのですが、「なんかすごく第二波的な響きがする」「ぜんぜん新しい感じがしない」と言われ、却下されてしまいました…。今後どうするかは考え中です。
 2000年代以降のフーコーの系譜を引き継ぐ新自由主義時代の権力論で出てくる「監視=管理社会」とか、「認知資本主義」とか、「ハイパー資本主義」とかを入れてみても、美の場合にはピンとくる概念にならないってところが面白いところです。
 
ここまでの議論を補強するために、補足的に例を挙げると、近年の女子力の議論を見てもわかるように、女子力を上げるのは、
 
1、自分のため、
2、異性にモテるため 
3、同性もしくは全方向モテのため
4、仕事を円滑に遂行するため
 
のようなものが挙がるようになっており、4は社会構造による強制と解釈することもできるような気がするし、2も異性愛主義的な現代社会による強制と解釈できるとしても、1,3のあたりの女性の一主体としての主張を無視するわけにもいかない感じになっており、やはり美は社会構造によるのかそれとも主体によるのかの二分法に関しては、どちらもです、という答えになってしまって、女子力分析がうまくいかない。
 
 以上より、「現在の社会で通用している美の尺度は、社会構造が作り上げたものか、それとも主体によるものなのか」の二分法では現在の美の実践は読解できないということが結論づけられるのではないかと思う。
 
 というわけで、物質そのものとそのネットワークに着目する分析方法が、主体/社会構造の二分法を打ち破る新たな社会学理論モデルになるのではないか(そうなるといいな)、そうなると社会学理論の進化だと言えるな、と思っている、今日この頃でした(案外私のミスコン調査はこの方向を目指しているのかもしれないと、考えを整理していてわかってきました。2月のミスコン研究会は諸々の事情によりお休みなので、この論考を研究会代わりにここに置いておきます)。

フェミニストたちの言う新唯物論について2: ブライドッティ『ポストヒューマン』(2013=2019)第1章まとめ

 本ブログ筆者・高橋が、「ポスト」フェミニズムや「ポスト」ヒューマニズムを重視するのは、「ポスト」以下にくっついている「フェミニズム」や「ヒューマニズム」の思想を、新しい時代や社会の状況を踏まえて、練り直す必要があると考えているからです。(沢山発生している「ポスト◯◯」論って、80年代ポストモダン論の副産物なんだよなぁ。)

 今日は、ロージ・ブライドッティ『ポストヒューマン』(2013=2019)第1章の議論の大枠をまとめます。すごーく分かりやすく書く、というのが今日の目標です。フェミニズムの話は、広く多くの人に伝わることが重要なので。

 

1.なぜブライドッティを読むのか

 ブライドッティに着目すべき理由は、彼女が新しい主体の理論を構想しているからです。 

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  上記でも少し触れましたが、社会構築主義(=ポスト構造主義)以降、主体が権力によって構築されているのだとすれば、抵抗主体はいかにして可能なのか?という大きな問いが残っていました。バトラーの「パフォーマティブ」という概念に抵抗主体の可能性を見出すというような形でなんとか乗り切られてきたり…していました。が、網の目状に張り巡らされた権力関係(=社会)の中の「主体」とはどのような存在なのかについて、ポスト構造主義アプローチとは異なる理論的説明をしてくれる理論はけっこう待望されていたと言っていいと思います。

 ブライドッティの良さは、新しい主体の理論を目指しているところにあります。これが私の立場です。では行きましょう。

 

2.第1章「ポスト人文主義」のまとめ

 基本的にブライドッティの議論は、次のような構図の中でなされている。

【1】ヒューマニズム → 【2】アンチヒューマニズム → 【3】ポストヒューマニズムもしくはポストヒューマン

 

【1】ブライドッティが言う「ヒューマニズム」とは、ルネサンス人文主義ヒューマニズム)ならびに、ファシズムに抵抗したヨーロッパの共産主義共産党ヒューマニズム

 このヒューマニズムの思想家として、例えばサルトルボーヴォワールらの実存主義哲学者がいる。


【2】「アンチヒューマニズム」とは、のちにポスト構造主義と呼ばれる、68年世代の思想家のこと。彼らの思想は、教条主義的な共産主義ヒューマニズムを批判するところから始まった。思想家として、ブライドッティが重視しているのは「人間の死」を宣言したフーコードゥルーズフェミニストとしてイリガライ。

 彼ら彼女らは、マルクス主義が案に含み持つヒューマニズムを批判。すなわち、

「人間を世界史的中心に絶えず位置づけようとするヒューマニズム的傲慢」(ibid. 40)

を批判し、

弁証法的で対立的な思考法から身を引き、人間の主体性についての変わりゆく理解に対処するための第三の方法を展開した」(ibid. 40)。

 第三の方法というのが、脱構築だったり、権力分析といったポスト構造主義的な方法でした。

 

 このようなポスト構造主義によって、人間観が変わりましたポスト構造主義は、「人間本性」という人文主義的通念に対する不服従を呼びかけ(=「人間の死」)、「人文主義、合理主義、普遍性に基づくヨーロッパ的アイデンティティの古典的な定義を拒否するに至った」(ibid. 43)。

 その結果、人間は「一つの理想でも、客観的な統計上の平均や中庸の立場」でもなく、人間は歴史的・文化的に構築されたものであり、「人間なるものは一つの規範的な約束事」(ibid. 44)であるという人間観が思想上、一般的なものになった。

(人間とは、)「識別可能性――すなわち〈同一性〉――についてのある体系化された基準であり、それによって他のものすべてが査定され統御され、所定の社会的な場所に割り当てられる。そのこと自体は悪いことではないが、ただそれが人間を高度に統御的なものにし、またそれゆえに排除や差別の実践に加担するものにしている。」(ibid. 44-5)。

  

【3】そして、現代のポストヒューマニズムもしくはポストヒューマンと言われる思想についてです。現代のポストヒューマニズム/ポストヒューマン思想の流れはおもに3つあると、ブライドッティはまとめています。

(1)道徳哲学に由来するもの ポスト構造主義以降の価値相対主義的な状況に対する応答としてのポストヒューマン思想。

ヌスバウムら現代のリベラルな思想家によるもの。「人文主義的なコスモポリタン普遍主義」を復活させることで乗り切ろうとしている(ibid. 63)。

「私はヌスバウムが主体性の重要性を強調していることに大変満足している。しかし、彼女がその主体性を個人主義や固定したアイデンティティ、安定した場所、そしてそれらを束ねる道徳的紐帯に対する普遍的信念に再び結び付けているという事実には不満である。」(ibid. 63)

(ブライドッティって、ほんと端的に分かりやすく書いてくれる良い思想家ですよね)

 

(2)科学技術論に由来するもの
①ラトゥール
②分析的な形式のポストヒューマン理論、フランクリン、ルーリー、ステイシーら(パンヒューマニティを提唱)
③ニクラス・ローズ
④フェルベーク

 

(3)批判的ポストヒューマニズム:これがブライドッティの立場
1、批判的ポストヒューマニズムは、科学技術統治(政治的次元)の関係を扱うもの

ポストヒューマン理論は、科学技術の複雑性、そして、それが政治的主体性や政治的エコノミーや統治の諸形態にとって含意するものの両方を含むものでなければならない。:69

2、ポストヒューマンの主体は「多数性」によって構成されるが、説明責任を有するもの

わたしは、批判的なポストヒューマンの主体を、帰属の多数性をめぐるエコフィロソフィーの内部で、多数性において/によって構成される関係的主体として定義している。それは、種々の差異を横断して作用し、内側から差異化されてもいるが、それでもなお確固とした根拠に基づき説明責任を有する主体である。(78-79)

・ポストヒューマンな主体がもつ「説明責任」とは、「非単一的な主体のためのポストヒューマン的倫理」に基づいたもの。そのポストヒューマン的倫理は、「自己と他者――非-人間ないし「地球(=大地)」の他者を含む――の拡大された意味での相互連結を提示する」。

 うむ、ここらへんはもう少し説明が欲しいですよね。ブライドッティがここで言っている「説明責任を持つ多数性によって構成される主体」のあり方を分析するためのツールは、その後の章で論じられているので、今後さらにそれを理解していく必要がありそうです。

 

3.まとめ

 第1章は、「ポストヒューマニズム」を扱っていました。ブライドッティは、基本的に、ヒューマニズムは何度も「終わった」と言われ、そして何度でも蘇るものであると考える立場をとっているように見えます。ヒューマニズム自体が批判を受けて変容し、相手を取り込みながら生き続けるという、そういう力を持っていると言えるのではないかと、私も思う。

 ヒューマニズム人文主義人間主義)が「健康な成人・白人・男性」を理想的規範とする人間観に基づいた思想だったからと言って、「ヒューマニズム全体を捨て去るべき」と主張することは、なかなか難しい。というのも、「女性にも発言させろ!」、「有色人種にも同等の権利と社会的承認を!」と主張するとき、私たちはヒューマニズムの伝統と理念に基づいているわけなので。

 ということを踏まえると、ポスト構造主義による「人間の死」とは、それまでのヒューマニズムの限界を指摘し、新しいヒューマニズム(西洋中心主義・男性中心主義・白人中心主義的でないヒューマニズム)を目指したものだったというブライドッティの見方は、穏当で妥当な見方だと言えると、私は思います。

「ポスト植民地主義思想が主張するのは、仮にも人文主義に未来があるとすれば、それは西洋世界の外側から、ヨーロッパ中心主義の諸限界を迂回してやってくるに違いないということである。」(ibid. 42)

 

 そして、このようなヒューマニズムのあり方は、フェミニズムにもおそらく共通している。フェミニズムは何度でも終わったと言われるが、言われるたびに批判相手を取り込みながら変容し、復活していくのではないかと思います。 近代が終わったと言われながら、何度でも復活してくるみたいに。

 以上、ポストモダニズムから発生してきたポストフェミニズムとポストヒューマンの話でした。