ポストフェミニズムに関するブログ

ポストフェミニズムに関する基礎文献を紹介するブログ。時々(とくに大学の授業期間中は)ポスフェミに関する話題を書き綴ったり、高橋幸の研究ノート=備忘録になったりもします。『フェミニズムはもういらない、と彼女は言うけれど :ポストフェミニズムと「女らしさ」のゆくえ』(晃洋書房、2020)、発売中。

ジェンダーから見るセカイ系:戦闘少女の登場と少年の受動性

あるところに「本企画」として提出した文章なのですが、そういえばもう半年くらいたったのに音沙汰がないので、ダメだったのかなーと思っているところです。なので、公開。

セカイ系ジェンダーの観点からきちんと(体系的に)分析してまとめたものはなかったので、今やっておかないと、このまま過ぎ去ってしまうのではないかという危機感を持っています。

この内容、いつかどこかに書きたいと思っていますm(_ _)m。

 

タイトル:ジェンダーから見るセカイ系――戦闘少女の登場と少年の受動性――

カテゴリ:評論・批評

 

内容紹介(300字)

 戦闘能力としても精神的にも弱い男性主人公を描いたセカイ系作品をジェンダーの観点から検討する。

 圧倒的強さを誇る戦闘美少女は、〈戦う男/守られる女〉というこれまでの性別役割の反転を象徴する。セカイ系は、戦闘美少女である「キミ」と無力な主人公「ボク」の恋愛関係にセカイの命運が託された物語である。性別役割反転によって、男らしさ/女らしさはどのような形をとるようになり、どのような地点にたどり着いたのか。戦う役割を失った少年の不安と戦い始める少女の不安、両者の間に結ばれる関係を丁寧にたどりながら明らかにすることが本書の目的である。本書は、ジェンダースタディーズの副読本の位置づけを獲得することを目指す。

 

 

目次案

序章

第1章 戦闘少女と少年の受動性

1.戦闘美少女像の確立

2.男性のフェミニズム受容第一世代としてのオタク第一世代

3.80年代に登場した男性の受動性 

 3.1.オタク第一世代の受動性

 3.2.村上春樹作品の主人公の受動性

4.セーラームーン型戦闘美少女の登場と少年の受動性

5.セカイ系作品に見られる少年・青年の受動性

 5.1. 痛みを分有する存在としての少年・青年

 5.2.自己の空虚さという問題の残存

 5.3.セカイ系主人公が見出した自分の存在意義、男性アイデンティティ

6.まとめ

 

第2章 戦うセカイ系少女たちの不安――王子様願望の行方、女の子は王子様になれるのか問題

 1.はじめに

 2.男性たちにおける王子様願望の挫折

 3.王子様になることを目指す少女ウテナの困難と可能性

  3.1.桐生冬芽との争い

  3.2.鳳暁生との争い

 4.まとめ 王子様願望の今後

 

第3章 「行動する保守」にとってのセカイ系

(・・・第3章以降は検討中)

 

 

はじめに

 男性学杉田俊介(2016:15)は、男性性の問題として「男性の弱さ」という論点を挙げ、「男性の弱さとは、自らの弱さをみとめられない、というややこしい弱さなのではないか」と述べている。弱さを抱えているのにそれを認められず、強い男であり続けることでしか一人前の男とは言えないと思い込んでいる点に男の生きづらさがあるというのが杉田の主張だ。これは、「今後はもっと弱い自分をさらけ出せるように心がけよう」というような個人の意識の持ち方次第で解決する問題ではない。女性よりも弱い男性という男性アイデンティティの形式が社会的に確立していないという問題である。

 この問題関心を踏まえて考えてみると、高い戦闘能力を持つ少女と弱い男性主人公との関係を繰り返し描いたセカイ系は、新しい世代の新しい男性性の可能性を包含していたのではないかということに思い当たる。主人公は、自分よりも高い戦闘能力を持つ少女が苦しみながら戦って死んでいくさまを見ていることしかできない。彼女の代わりに戦うことも彼女を助けることもできない無力さに苦しむ主人公は、それでもなお、「特別な存在であるキミ」に対する「ボク」としての男性アイデンティティを模索し確立しようとしている。「キミ」より弱い「ボク」の存在意義という問題に正面から取り組んでいるセカイ系は、ジェンダー論の観点からこそ論じられるべき作品群だ。

 

 

 

好意的性差別について

性差別(sexism)には、「敵対的性差別」だけでなく「好意的性差別」もあるということを述べ、この二つを組み合わせた「両価性性差別尺度( Ambivalent Sexism Inventory、ASI)」を開発したのは、Peter Glick & Susan T. Fiske(1996)であります。

Peter Glick & Susan T. Fiske, 1996, The Ambivalent Sexism Inventory:
Differentiating Hostile and Benevolent Sexism, Journal of Personality and Social Psychology, Vol. 70, No. 3,491-512.

 

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(上記図は、p.498より引用)。

 

重要なのは、好意的性差別なるものをどのような質問項目で測定しているのかですよね。その一覧がこちら。

 

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好意的性差別とのところだけ簡単に訳すると、
         
    ~~ここから訳~~
 

 「女性は台座の上に設置されるべき(pedestal)」(うーん、うまく意訳できない)

 「女性は男性から大事にされ(cherished)、守られるべきだ」

 「災害時には、女性は最初に救助される必要はない」(逆転項目)

 補完的ジェンダー差異

 「女性は道徳的感受性において優れている」

 「女性は、男性がほとんど持っていない純粋な特性を持っている」

 「女性は文化や趣味において、より洗練された感覚をもっている」

異性愛的親密性

 「すべての男性は女性を崇敬(adore)すべきだ」

 「 男性は、女性なしでも完全である」(逆転項目)

 「男性は、人生で成功しても(accomplishment)、女性なしでは不完全だ」

 「人々は、異性愛的ロマンスがなくても、幸せである」(逆転項目)

 

   ~~ここまで~~ 

 

このような質問項目で測定している。

・「男性は女性をadoreする」という考え方って、神への愛を女性への愛へとスライドさせてきたキリスト教文化圏固有な感じがするので、日本人の恋愛観ではこの数値は低くなりそう。

 

 

ASIに関しては、ちゃんと日本語訳版も作られて信頼性と妥当性の検証がなされているのですが(注1)、私はこれを手に入れられていないので、さしあたり元のグリックとフィスクの(私の意訳)を載せました。

 (注1)宇井美代子・山本眞理子 2001 Ambivalent Sexism Inventory (ASI)日本語版の信頼性と妥当性の検 討 日本社会心理学会第 42 回大会発表論文集, 300-301. で、知っている人にお尋ねしたいのは、↑これどうやったら手に入るのでしょうか?ということ。 「日本社会心理学会」のHPの「大会論文集」のところをみると、「非公開」になっています。http://iap-jp.org/jssp/conf_archive/search.php?p=4&w=&y=2001「発表登録時に著作権譲渡手続きを行っていないため」、非公開とのこと。なぜこんなに大事なものが非公開になっているのだ!もったいなさすぎる! 大会論集って、会員のところに自動的に送られてくるアレですよね。どこかの社会心理学研究室とかに行けば収蔵されてそうですが(本郷の社会心理学研究室まで行くの遠いなぁ)、他に手に入れる方法ないでしょうか。日本社会心理学会に詳しい方、教えてください(もしくは手元にある人、個人的にシェアしてください!) 

 
 
吉岡真梨子さんの2017年の論文

https://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/files/public/4/42649/20170324131424297256/JEducSci_10_149.pdf

の解説によると、グリックとフィスク(1996)は「性差別主義者は敵意的性差別と好意的性差別を時と場合によって使い分け,自己の行為を正当化するという仮説と ASI を用いた調査結果が一致することを明らかにした」。

 

好意的性差別の何が問題って、「男」か「女」かで人を分けるという点で、敵対的性差別を裏側から補強するようなものになっている点。そして好意的性差別と敵対的性差別とを時と場合によって使い分けることで、sexism(性によって人を区別して捉えること)が存続する点。

・sexismの日本語訳って「性差別」が定着していますが、「性差別」だとちょっと強すぎるような気もします。本当は「性主義」でいきたいところですが、こんな日本語は誰も理解してくれないか。

 

吉岡論文も面白かったので、また今度ご紹介します。

 

最後に、好意的セクシズムについては、
男性の女性に対する好意的/敵対的セクシズムだけでなく、
女性の男性に対する好意的/敵対的セクシズムもあります。
「男ってのはすぐ・・する」というステレタイプに基づいたセクシズム。
これについてもちゃんと考えていく必要があります。
 

「ポストフェミニズム」と言うことの認識利得

(*単行本用の原稿として書いていたものですが、どこにも入らなくなってしまったので、ここにアップします。紙に印刷して本の形態で読む用の原稿であり、ブログ用の文体じゃないので、若干読みづらいかもですが、すいません)

 

 「ポスト(post)」とは、基本的には「後の(after)」という意味だが、「ポストモダン」や「ポストコロニアリズム」といった用法に見られるように、モダン(近代)やコロニアリズム植民地主義)が「終わった」ことを意味するというよりも、それらが新しい権力関係や資本、メディア、技術の中で、新しい段階に至ったことを指し示すものである。

 

 カルチュラルスタディーズの大家スチュアート・ホールは、抹消記号としての「ポスト」を論じ、「脱構築は、諸概念が脱構築された形式で採用されるときに限り、現在を考えるための唯一の概念的道具、つまり手段として、それらの概念を維持しておくのである」(ホール)としている。ポストコロニアリズムというパースペクティブを取ることで、植民地支配が形を変えて行われているという議論が可能になる。

 

 このことを踏まえれば、ポストフェミニズムというパースペクティブをとることで、第二波フェミニズムの議論を踏まえながら、変化した新しい社会状況において、いまでも有効なフェミニズムの主張と、限界を迎えた点とを精査しながら、議論をさらに進めていくことができると期待できる。

 

 筆者は、とくに「性別役割批判」の可能性と限界という点に関心がある。第二波フェミニズムの性別役割分業批判が始まったのは、第二次産業を主要産業とする資本主義と福祉国家体制が確立した時期だった。「男は外で賃金労働、女は家の中で家事育児介護という再生産労働」という分業に基づいた家族が、この資本主義-福祉国家体制を支えていた。そのため、性別役割批判は、クリティカルな資本主義-福祉国家体制批判になりえた。

 それに対して、第三次産業が主要産業となった資本主義は、ジェンダーに基づいた労働力管理よりも、男女に限らず短期契約で柔軟に(flexible)使える労働力を必要とするようになった。また、グローバル化の進展で福祉国家体制も切り崩されつつある。このような新自由主義体制のもとでは、第二波フェミニズムが行っていた性別役割批判の意味も変わってくることになる。例えば、性別役割を批判して、女性の労働力化を推し進めることは、新自由主義が要求する「柔軟な」(すなわち短期契約の不安定雇用)労働力化と共振し、推し進めてしまう役割を果たすことにもなりうる。

 

ポストフェミニズムというパースペクティブをとることで、福祉国家体制から新自由主義体制へという新しい社会の変化のなかでのフェミニズムの主張の意味合いの変化を捉えることができる。

 

ちなみに、フェミニズム文学研究者の竹村和子は、2000年代の初頭に、ポストコロニアリズムに対する深い造形に基づいて、 「 “ポスト” フェミニズム」を提起していた(竹村2003)。当時日本はフェミニズムに対するバックラッシュの真っ最中だったこともあり、この提起が広い裾野を獲得したとは言いがたい。だが、フェミニズムに対するバックラッシュがさしあたり一段落つき、そして他文化圏と同様にその後、ジェンダー意識の「保守化」傾向が見られる現在こそ、ポストフェミニズムについての議論を深めていく必要がある。

 

ポストフェミニズムに着目する理由

 ポストフェミニズムは、とくに「女性のフェミニズム離れ」を主要な特徴とする。集合的アイデンティティの観点から単純に考えれば、女性の社会的権利を主張し要求する運動に女性が反対する理由はない。社会における経済的、文化的資源や地位権力などが男女に不均等に配分されていることの是正を求めることは、「女性」という集合的アイデンティティを持つ者にメリットをもたらす。

 

 にもかかわらず、女性がフェミニズムに反対するという態度をとるとすれば、これは、男性という社会的アイデンティティをもつ者が、フェミニズムに反対することとは性質が異なる。女性によるフェミニズム批判やフェミニズムからの距離化は、ただたんに「バックラッシュ」の一環や「アンチフェミニズム」の一種といって済ませられる問題ではない。これまで論じられてきたアンチフェミニズムの枠組みでは捉えきれない問題である。

 

 また、フェミニズムに反対する女性を、女性による女性性憎悪(ミソジニー)だと批判して済む話でもなさそうだ。フェミニズムから距離を取る女性たちの一類型として、恋愛に積極的で「女らしさ」や「女性性」を強調し、その享受を主張するというものがある。彼女たちに言わせれば、フェミニズムの方が、「女性性」から脱出しようとし、「女性性」を否定しようとする、女性憎悪に駆られた人々だということになる。

 

 女性という社会的アイデンティティを持つ人々の、フェミニズムから距離を取る態度に焦点を絞って検討していくことで、バックラッシュの複雑な様相を捉えることができるだろう。この基礎的な考察を踏まえて、バックラッシュ後の現在の新しいジェンダー編成を捉えていく必要がある。

 

ポストフェミニズムというパースペクティブ

 ポストフェミニズムというパースペクティブ(分析視角)をとることで、福祉国家国民国家主義)体制からグローバル規模で進む新自由主義体制へという時代的社会的変化を踏まえたうえで、第二波フェミニズムの主張のうち現在でも有効な議論と限界を迎えた主張とを精査して、今後の継承につなげていくことができるようになる。この方向の研究として位置づけることのできる日本の研究として、菊地夏野(2019)がある。

 

 また、高度資本主義においては、抵抗カルチャーとして登場したものが速いスピードで資本に取り込まれ、大衆化していくというサイクルが見られる(ストリートカルチャーとしてのヒップホップ、ラッブ、スケボー、ロックミュージック、インディーズバンド文化などがその典型)。いまやアンダーグラウンドカルチャーやサブカルチャーハイカルチャー、主流文化の区別は成り立たない。抵抗カルチャーとして登場したフェミニズム原理もまた、すでに主流(マジョリティの)文化に吸収されつつあり、もはや主流文化対フェミニズム文化という構図では、捉えられないような文化状況になっている。例えば、90年代のアメリカ10代少女向けファッション誌界を分析したBudgeon and Currie(1995)は、主流文化の『セブンティーン』にもかなりの程度のフェミニズム的なメッセージが見られるようになっており、もはや「セブンティーン対ステイシー」というような分かりやすい構図では捉えられなくなっていることを指摘している。

 

 このような文化状況を捉えるには、フェミニズムを支持する女性対アンチフェミニズムの女性という枠組みではなく、フェミニズム原理に基づく主張の意味合いが時代の変化のなかでどのように変化してきたのかを問題にするポストフェミニズムという枠組みが必要である。この方向の研究として位置づけることのできる日本の研究として、田中東子(2012)がある。(また、フェミニズム原理の浸透という文化状況の中で、なぜか執拗に「フェミニスト」に対する敵対的感情だけが残り続けるのもポストフェミニズム状況の特徴であり、探求すべき興味深い課題であると考えられる。)

 

 最後に、「第三派フェミニズム」ではなく、「ポストフェミニズム」という分析視点をとることの利点は、フェミニズムに加担する/しないというイデオロギー上の決断主義に陥らずに、ジェンダーセクシュアリティ秩序の社会学的分析をすることが可能になるという点にある。第二波フェミニズムが「女性」の連帯を強調するあまり、白人異性愛主義女性のイデオロギーと運動という傾向を持ったことに対する反省的視線を持つ第三派は、それゆえ、かなりの多様性を備えている。運動の多様性そのものは歓迎すべきことであるが、社会学的な理論的営為としてみたとき、第三派フェミニズム全体を扱うことは不可能に近い。若い女性のフェミニズムに対する態度に焦点を絞って、現代のジェンダー編成を捉えていくことが、理論的には有効な方法であると考えられる。

 

 

 

フェミニズム原理の日本社会への浸透

例によって、或る原稿のために書いた文章ですが、全面カットすることにしたので、ここに掲載させてください。どこかで今後使う可能性もあるので、ここ間違っているよ、とか、ここの論理展開が変ではというのがあったら、指摘してもらえるとありがたいです。

 

序章 バックラッシュ以後のフェミニズムとポストフェミニズム

1.フェミニズム原理の社会への浸透

1.1 

 フェミニズムには、大きく分けて、第一波フェミニズムと第二波フェミニズムがある[1]。第二波フェミニズムは、日本において1970年代から存在感を持ち始めた。そして、これ以降、「男女平等」な社会が公正な望ましい社会であるというフェミニズムが推し進めてきた原理は、少しずつ社会に浸透してきた。現在、男女差別や人種差別、いじめなどに反対し、それを改善するための行動をすることが社会的に望ましい、道徳的な態度と見なされるようになっている。フェミニズム原理(feminism principle)は、社会道徳の一つとなり、「社会」を批判する足場となっているといえる。

 だが、奇妙なことに、男女平等という理念は肯定するが、フェミニストフェミニズムという語に対しては拒否したりそこから距離を取ろうとしたりする行動が頻繁に見られる[2]。「フェミニズム原理」が広く薄く浸透していく社会で、「フェミニスト」が忌み嫌われ避けられるさまは、フェミニストはあたかも人身御供かのようだ。

 では、(なぜこのような事態になったのか。)日本の1970年代以降の日本でのフェミニズムの社会的あり方、どのように社会に受容されてきたのかについて概観してみよう。

 ちなみに、以下では「フェミニズム」と「フェミニズム原理」という言葉を区別して用いる。「フェミニズム原理」と言ったときには、広く社会的に受け入れられている「男女平等な社会が望ましい」という考え方のことである。

 

 1970年代から1980年代前半までフェミニズム原理を社会に浸透させる機能を担ってきたのは女性運動(Women’s Liberation)であった。「ぐるーぷ闘うおんな」や「中絶禁止法に反対しピル解禁を要求する女性解放連合中ピ連)」、「国際婦人年をきっかけとして行動を起こす女たちの会」などをはじめとする多くの女性運動が生まれ、大きな波となる。「個人的なことは政治的なこと(The personal is political)」を合言葉に、女性当事者の声を吸い上げて社会に問題提起し、社会的・政治的なものの領域を巻き込んだ議論を喚起していった。一方、この時期のマスコミは、女性運動を嘲笑しながら取り上げるという態度をとっている(江原[1981]2009)。

 1980年代中盤以降になると、放送・マスコミ業界の女性社員に支えられながら、フェミニストの学者、ジャーナリスト、小説家などがマスコミやジャーナリズムを通して活躍し始める[3]。マスコミを通したフェミニズム原理の浸透が始まった。消費と資本の論理で動くマスコミを媒介とするがゆえに、女性運動を媒介とする場合とは異なる――その意味で「歪んだ」――形で、女性が注目され、主題化され、議論の対象となっていった。例えば、視聴率や購買部数を稼げるネタとして、性的に解放された若い女性たちに注目が集まり、80年代の「大学生ブーム」、90年代の「女子高生ブーム(コギャルブーム)」が起き、「ブルセラ」「援助交際」が話題となった。また、経済力をつけた女性の生産・消費活動が主題化され、新自由主義政策と共振するフェミニズム――女性の社会進出(労働力化)や、消費主体としての新しい女性のあり方を論じるフェミニズム――が相対的に流通しやすくなった。

 マスコミを媒介としたフェミニズム原理の伝達は、若い女性のセクシュアリティと経済力に人々の注目が偏向することを対価としたが、着実に薄く広くフェミニズム原理が広まっていく下地を作っていった。

 1990年代中盤以降は、テレビ、映画、マンガ・アニメ、小説、音楽などのポップカルチャーフェミニズム原理を社会に浸透させる機能を果たすようになっていく。テレビドラマではキャリアウーマン表象が増え、性的に積極的な女性像の登場が話題になったりもした(『東京ラブストーリー』(ドラマ放映1991)、90年代論文引用挿入)。アニメ、マンガ、ラノベでは、自らメインで戦闘する戦闘美少女ものが、オタクの壁を越えて一般化する。これらの、フェミニズム原理と齟齬しない新しい女性像を描いたポップカルチャー生産-消費形態は、マスコミやジャーナリズムによる「女性性」消費とは異なっている[4]。そこで、これを「ポップカルチャーによるフェミニズム」と呼称することにしよう(本稿がポップカルチャーによるフェミニズムを重視しているのは、このような枠組みで捉えているからだ[5]。今後さらなる、ポピュラーカルチャーによるフェミニズムについての研究が必要である)。

 

1.2 フェミニズムの浸透による社会的道徳(「社会的に共有された価値」)のゆらぎ

 だが、このように社会のなかでのフェミニズムの存在感が増していく中で、フェミニズムは良くも悪くも人々の激しい感情的反応を引き起こしてきた。その理由は、第一にフェミニズムが人々の間に分断をもたらしたからであり、第二にフェミニズムが人々の道徳意識や社会全体で共有されていると考えられてきた価値や規範を揺さぶり、変化させるようなものだったからであると考えられる。

 

旧世代男性/新世代男性の分断:「おたく(オタク)」や「新人類」はフェミニズム原理を彼らなりに吸収して新しい世代意識を形成している

 フェミニズムはそれを支持する志向を持つ女性と、それに反対する志向を持つ女性との間の対立を引き起こしてきたことは、良く知られている(Bush 2007)。ただ、フェミニズムの社会への浸透によって分断されたのは、女性たちだけではない。男性たちもまた激しく分断されてきた。

 

 かつて男性フェミニストとは、俗に「女に甘い男」という意味になりえた[6]という事態は、男性内の分断があったことを明示するものだ。〈男/女〉と〈友/敵〉の二項対立を前提とした「男の味方/女の味方=男の敵」の世界観のもと、女の味方をする男性は男性を裏切る存在であり、自分だけ女に好かれようとする抜け駆け男だという判断形式があったのだ。

 1980年代に開花したオタク文化についての諸研究(大塚・ササキバラ2001, ササキバラ2004)に見られるように、1950年代末~1960年代生まれの新しい世代の男性たちは、1980年代に自らを「新人類」や「オタク(おたく)」と呼びながら、古い世代とは異なる世代意識(アイデンティティ)を確立していった。バブルの消費社会に適応した「新人類」と、それを横目で見ながらルサンチマンを抱えつつオタク的教養に没入した「オタク」は異なる存在だったとされているが(大塚 2004)、現在ではこの世代をひとまとめにして「オタク第一世代」ということが多い(東 2001)。重要なのは、「新人類」も「オタク」も、彼らが年長世代の男性(「おやじ」)とは異なる新しい世代意識を形成したという点で共通しており、そのさいにフェミニズム原理が取り込まれているという点である。ササキバラ(2004)は、「女性と見ればセクハラするような年長世代に抗して新たな世代意識‥‥」ということを論じている。

 オタク第一世代は、10代で直面したフェミニズムの衝撃を彼らなりに受け止めようとした最初の世代でもある[7]大塚英志(1958-)や宮台真司(1959-)に顕著に見られるように、彼らは少女マンガを読んで少女の内面を理解しようとし、高度消費社会を軽やかに生きる新しい主体として少女的主体を称揚した(大塚 [1989]2001, [1989]1997, [1991]1995, 宮台 [1994]1994, 1995)。大塚英志は「少女フェミニズム」という概念も提起している(大塚 [2001]2004)。高度消費社会を迎えた80年代日本の、新しい男性/古い男性という分断線を補強するものとしてフェミニズムが男性において機能していたことがわかる[8]

 

社会的規範や共有された価値の動揺:女子大生ブーム、コギャル、援交

 フェミニズムの社会への浸透は、オタクに限らず、より広い範囲の人々に影響を及ぼした。フェミニズム原理が社会に広まることで、家庭や恋愛・性愛関係といった個人的なものの領域(the personal)と職場などの社会的なものの領域(the social)の双方での変化が引き起こされた。恋愛や性愛の相手である夫婦関係や恋人関係において、それまで男性側が当然の権利と思っていたことに対する妻・恋人からの拒否・否定反応が示されるようになり、性別役割意識の再考を迫られるようになる。性愛という個人的な欲望と欲求に関連する相手からの拒絶や主張に対しては、個人レベルでの主体的な対応や行動が避けられなくなる。

 職場でも、女性社員の増加とともに女性社員の扱いに関する明文化されたルールの変化や、慣習や常識レベルの変化が起こっていく。全体社会を見渡してみれば、性の自己決定の原理に基づく、若い女性たちの援助交際ブルセラといった新たな社会問題が浮上してくる。

 多様な勢力が集まってうねりとなった第二波フェミニズムの主張を一言で言うのは困難だが、多くのフェミニストに共有されていた主張は、男女間の対等な権力の分配に基づいた女性の自立化を目指すものであったと、さしあたり言うことができる。女性の自立化のため、具体的にはおもに、女性の経済的資源へのアクセス権(職業キャリアの追求の自由=経済的・政治的自由)と、性の自己決定権(性的自立性・自由)の獲得が目指された。女性の性の自己決定が可能になると、男女は共犯的に性的解放へと進んでいった。セフレという言葉が一般化されたのは1990年代である。これが1990年代までの顛末である。フェミニズムが意図したかどうかは別として、結果的に、フェミニズムが社会に浸透したことで、女性の社会進出と女性の性的解放が同時に進むことになった。この二つが同時に進行したことで、人々の公私を巻き込んだ日常生活の変化がもたらされ、人々の不安を誘発し、社会道徳が動揺しているという感覚を引き起こした。

 

 1980年代には日本でもポストモダニズム思想が思想界・論壇のモードとなるなか、社会的に共有された価値・規範が失われたという議論が力を持った。「大きな物語の喪失」(Lyotard, 1979=1986)という議論に実感レベルでの裏づけを与えたものの一つとして、フェミニズムの浸透による女性の変化、それへの対応を迫られた男性の変化と分断があったと考えることができる。90年代になると、猟奇的な少年犯罪や少女たちの売春の背景として、繰り返し「心の不透明化」や「内面の欠落」が語られた(鈴木2017)。これらの議論もまた、大きくは「共有された価値規範の動揺」、「社会秩序の危機」という社会的意識に連なるものである。

 以上のように、フェミニズムは、女性の社会的権利の問題、実質的な生活上での決定権の問題であっただけでなく、社会全体の道徳や価値規範の変化を引き起こすものとして捉えられてきたという側面がある。

 フェミニズムが社会道徳の動揺を引き起こすものとして捉えられたがゆえに、フェミニズムに反対する勢力(バックラッシュ派)は、道徳性・社会秩序、伝統の回復といった道徳性の主張を通してフェミニズムのバッシングを行っていくことになった。

 

 

 

[1] 第一波フェミニズムとは、19世紀の欧米で始まった。奴隷制度廃止運動(Abolitionism)や労働者の参政権等の獲得を主張する運動を背景に、女性の財産相続権や高等教育を受ける権利、女性の職業をガバネス(家庭教師)以外に広げること、参政権などを要求してきた運動である。これらの運動は少しずつ前進し、女性を含む「国民」の全面的協力を必要とした20世紀の2つの世界大戦を通して、参政権も獲得されるに至った。

第二波フェミニズムというのは、第二次世界大戦後に生まれたベビーブーマー世代による1960年代のカウンターカルチャー(抵抗文化、社会を支配する権力に抵抗し、自由を追求。)のうねりの中で生じた。第二波フェミニズムは、日常生活における実質的な男女不平等があることを指摘し、人々の意識の内で暗黙の了解となっていた「性別役割」意識が、日常生活の男女不平等を再生産していることを告発していく。

[2] 例えば、Boxer(1997)のニューヨークタイムスの記事によれば、1997年のCBSニュースの世論調査において、すべての年齢の女性の3/4が「女性の地位は過去の25年間に改善した」と答えたが、「自らをフェミニストである」としたのはおよそ1/3であった。

[3] 江原由美子(1990:6-12)は、日本における女性学・フェミニズムの発展の時期区分として、次のようなものを提起している。1970年-1977年まではリブ運動の時代で、運動の側、活動家の側にフェミニズム論の主導権があった。1978年-1983年までは、婦人行政の変化を背景とする女性学創出期で、運動体、行政関係者、研究者のいずれも主導権をとれずに並びたった。1983年以降は有名人フェミニストによるフェミニズム論争の時代――「論を展開する際に、運動体名や層としての女に自己の論の正当性を求める(運動者がとるスタイル)のでなく、自己の論の受け手を学問世界に限定しその内部における評価を主要に追求する(研究者が通常取るスタイル)のでもなく、個人の名前でジャーナリズム等において社会評論等の活動を行うフェミニスト」(江原1990:12)によってリードされた論争が目立った時期――と整理している。

[4] 現在、ジェンダーの視点に立ったコンテンツ内容に関する分析――例えば、男性性/女性性がどのように表象されているのか等――や、オーディエンス研究――コンテンツがオーディエンスにどのように受容されているのか――のさらなる充実が必要とされている。多種多様多岐にわたるポピュラー・カルチャーを各領域、ジャンルをふまえながら詳細に把握するだけでなく、それを総合していくような視点も必要とされている。

[5] フェミニズム原理の社会への浸透機能を担った媒体の変化に基づいて、ウーマンリブが始まった1970年代からの日本のフェミニズムの流れを捉えるとき、70年代から80年代中盤までにそのプロトタイプが形成された「女性運動によるフェミニズム」、80年代中盤から90年代中盤までにそのプロトタイプが形成された「マスコミによるフェミニズム」、90年代中盤以降の「ポピュラーカルチャーによるフェミニズム」の3つに大きく分類することができる。2000年代以降のフェミニズムの展開は、この3つの理念型の組み合わせとバランスの変化による新たな編成として捉えることができる。2000年代後半以降には、SNS等を用いたインタラクティブなコミュニケーションの活発化のなか、新しい社会運動の編成が起こっており、フェミニズム原理の浸透機能における〈女性運動によるフェミニズム/マスコミを通したフェミニズム〉は新たな局面を迎えている。)

[6] 男女平等を求める若手フェミニストグループの「明日少女隊」が中心となって、岩波書店に対し、「広辞苑」の「フェミニスト」項の解説の修正を求めていた。2018年の第七版で、「①女性解放論者。女権拡張論者。②俗に、女に甘い男」(第六版)から、「①女性解放論者、女権拡張論者。②女に甘い男。女性尊重を説く男性」(第七版)に修正された。

[7] 男性学伊藤公雄(1951-)や細谷実(1957-)などのように、もっと早い段階でフェミニズムの衝撃を受け止めた人々はいたが、世代としてフェミニズムに向き合ったと言えるのは1950年代末から60年代生まれの男性たちである。

[8] ちなみに、女性文化現象を主軸にして世代分類する場合、1950年代末から60年代前半生まれは「アンノン族」である。

【人の論文紹介】伝統的男性役割(5側面)/新しい男性役割(4側面)の心理学的解明

本日の日本女性学会のMLでも、男性役割についての議論が回ってきていますね。

心理学は性別役割についてかなり長いこと(1960年代の英語圏で最初の盛りあがりを見せた)、細かく分節化し、経験的に測定して、議論してきているので、もっとここらへんの知見を社会学及びジェンダー論一般も取り入れると、議論がより充実するのではないかと思っています。そこで、以下の論文を紹介。

 

渡邊寛, 2017, 「多様化する男性役割の構造:伝統的な男性役割と新しい男性役割を特徴づける 4 領域の提示」『心理学評論』Vol. 60, No. 2: 117–139. (=https://www.jstage.jst.go.jp/article/sjpr/60/2/60_117/_pdf)の紹介

 

男性性については、英語圏、日本語圏で、研究されてきている(どの範囲のどの資料をカウントしているのかについては本文をお読みください)。

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渡邊(2017:119)

 

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渡邊(2017:120)

日本では、2000年代に「男性性」研究が盛り上がったが、2010年代にはむしろ伸びが鈍化している感がある。

 

これまでの性役割に関する心理学者が開発してきた尺度としてこれらがあり、

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渡邉(2017:122)

 その後、新しい男性役割についての研究も色々出てきている。

それらを分析・整理し、結論だけいうと、以下のように整理できる。

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渡邊(2017:134)

すばらしく良くまとまった論文。

社会学者のみなさん、このような心理学の研究をたくさん引用して、男性役割研究をともに進めていきましょうー(・ω・)ノノ