ポストフェミニズムに関するブログ

ポストフェミニズムに関する基礎文献を紹介するブログ。時々(とくに大学の授業期間中は)ポスフェミに関する話題を書き綴ったり、高橋幸の研究ノート=備忘録になったりもします。『フェミニズムはもういらない、と彼女は言うけれど :ポストフェミニズムと「女らしさ」のゆくえ』(晃洋書房、2020)、発売中。

フェミニズム・バックラッシュの歴史まとめ2

(2)人工妊娠中絶反対運動

 アメリカでは、1960年代後半から、アメリカ合衆国憲法修正第14条を根拠とする女性の「プライバシーの権利」に基づいた中絶合法化を目指す運動がみられるようになった。1970年には妊娠中の未婚女性ジェーン・ロウ(Jane Roe[1]らが原告となって、妊娠中絶手術を禁止したテキサス州法を違憲であるとして訴訟を起こす。1973年に、最高裁は人工妊娠中絶を規制するアメリカ国内法の大部分を違憲無効とし、「初期三カ月の中絶」をプライバシー権に基づいて認める判決を下した(通称「ロウ判決」)。

 

 これをきっかけに、保守派のバックラッシュが始まる。カトリック教会が全面的にバックアップしたアメリカ国内最大規模のプロライフ(pro-life)団体National Right to Life Committee(NRLC、カトリック教会のジェームズ・マクヒュー神父により結成、1973年に本格的に反中絶ロビー活動を開始)や憲法修正を目的とする生命尊重憲法修正政治活動委員会(LAPAC、1973年結成)、Christian Action Council(1975年結成、1999年に「Care Net」と改名し現在も妊婦支援活動を行っている[2])などが活動を活発化させていく。プロライフ派フェミニストNGOであるFeminists for Life of America(FFL)も1972年に結成されている。

 

 州権(state’s right)を重視する保守派・プロライフ派は、州・地方自治体レベルでの州法・市条例等の成立を通して、具体的な成果を積み重ねていった。ロウ判決後の4か月間だけでも、各州議会には200近い中絶関連法案が提出され、ロウ判決では明らかでなかった部分を狙って、さまざまな規制(夫の同意書や未成年者の場合の親の同意書の義務化、中絶を希望する女性に24時間の再考機関を義務付ける、カウンセリングの名のもとに胎児の発達段階についての詳しい説明をする、報告や記録を残すことの義務付けなど)を課していった(荻野2001:99)。

 

 連邦議会レベルでもロウ判決の覆しが試みられた。まず、ロウ判決直後から、「中絶問題の法的取り扱いに関して州政府の広範な裁量を認める州権修正案(States’ Rights Amendment)」や、「胎児の権利に実体的な保障を与えようとする人間の生命修正案(Human Life Amendment)」などの憲法修正案が連邦議会に提出された。その数は1974年初頭の時点で58と報告されている(黒澤2010:56)。だが、「カトリック司教や一部のプロライフ運動団体の強硬な姿勢は、多くの上院議員の反発を招く結果となり」、上院司法小委員会(Senate Judiciary Subcommittee)を通過せず、1976年には棚上げが決定された(黒澤2010:57)。プロライフ派は、数多くの憲法修正案の提出を行ったが、実際の審議に付されることがない状態が続き、この点では苦戦している。

 

 ただし、連邦の低所得者向けの医療補助であるメディケイドを妊娠中絶に使用することを禁止する法案(ハイド修正案Hyde Amendment)は1976年に成立し、「これによって、貧困のためにメディケイドを受けている女性は、実質的に中絶を行うことが不可能となった」(大津留1991:148-9)。「中絶反対派の議員たちは、たとえ補助がなければ貧しい女性には中絶の費用が支払えないとしても、彼女たちの『不都合な』妊娠のつけを納税者に回すのは正しくないという議論を展開し、人々の間にある『大きな政府』や福祉政策に対する不満や反感に訴えた」(荻野2001:103)。その後、各州で同様のメディケイド停止の法律が成立していき、1979年末までに40州で制限が導入された(荻野2001:104)。

 

 連邦議会は、さらに公的資金助成制限を厳格化させていく。1977年の規定では「妊娠の継続が母親に深刻で長期的な身体的損傷を与えると2名の医師が判断する場合」は「例外扱い」とされ、中絶のための公的資金助成を受けて人工中絶できたが、1979年にはこの「例外扱い」が認められなくなる。さらに、1981年には「レイプや近親相姦による妊娠の場合」の例外扱いも認められなくなり、結局「生命の危険がある場合にしか」中絶が認められないことになった。「レイプや近親相姦による妊娠の場合」が、「例外扱い」として認められ、助成を受けられるようになったのは1993年である(黒澤2010:59)。これに対して、プロチョイス派は、政府援助を受けることができず、ヤミ堕胎を受けて死亡した27歳のロージイ・ヒメネスにちなんで「ロージイ基金」を設立し、貧しい女性の中絶費用を援助した。1975年から79年までの非合法堕胎の数は、5000から2万3000程度、堕胎が原因で死亡したのは17名、そのうち14名(82%)は、黒人とヒスパニック系である(荻野2001:105)。

 

 1970年代の反中絶運動の中心はカトリック教会だったが、70年代末頃からは、プロテスタント教会の中の原理主義派や福音教会派、モルモン協会などの宗教右翼(religious right)が運動に参入して勢力を伸ばし、1980年の大統領選では、妊娠中絶反対を明示した共和党レーガン[3]が勝つ。そして、80年代には中絶反対運動の暴力化が進んでいく。

 ベネディクト派修道士で戦闘的活動家として知られていたジョセフ・シャイドラ―のPro-Life Action League(PLAL、プロライフ行動連盟、のちにプロライフ行動ネットワークPLANに改称)や、地下テロ組織The Army of God(1982年に成立)、キリスト教原理主義保守団体Operation Rescue(OR、ランドール・テリーによって1988年に正式に組織として発足、主要メンバーは300人程度だが、全国の保守的なクリスチャンが献身的に運動に参加したため、草の根運動として大きなインパクトを持った)などの各地のプロライフ団体・組織による、戦闘的暴力的活動が頻発する。

 中絶クリニック入り口に大勢の人間が座り込んでクリニックを封鎖するピケ、中絶クリニックにやってくる女性の説得や妨害(「歩道カウンセリング」と呼ばれ、祈りを捧げたり賛美歌を歌ったりもした)、車のナンバーから患者の家を突き止めて付きまとう、近所や家族の間で患者の女性を非難して中絶したことを暴露する、クリニックに電話をかけ続けていつも話し中にし、患者が予約を取れないようにする、患者のふりをしてクリニックに入り、中で中絶反対の宣伝をする、クリニックの放火や爆破、クリニック医師・看護師・職員・ガードへの罵倒や嫌がらせ、スタッフの自宅にピケを張る、脅迫電話、殺人未遂、殺人、反中絶活動家の裁判を担当している裁判官への嫌がらせや脅迫、女性団体への暴力的攻撃などの戦闘的な反対運動が繰り広げられた[4](荻野:115, 118-119)。

 1986年の調査では、中絶を行っているクリニックや病院の47%(1250施設)が、85年末までに何らかの嫌がらせを受けた経験があると回答しており、85年中に中絶を受けた女性の83%が反中絶勢力からの脅威にさらされたことになる(荻野2001:116)。

 

 プロチョイス派[5]は、クリニックに入ろうとする女性をエスコートして嫌がらせから守ったり、ORに対する訴訟を起こしたりした。1986年にNOWはジョゼフ・シャイドラ―を相手取り、中絶クリニック前でのデモや座り込み、妨害活動の差し止め命令を求めて、シカゴ連邦地裁に民事の損害賠償請求訴訟を起こす。1994年にはクリントン政権下で、中絶クリニックを訪れる人の権利を保障するFACE法(Freedom of Access to Clinic Entrances Act、診療所訪問保障法)が成立し、1998年にはNOW対シャイドラー訴訟に関してシカゴ地裁がシャイドラーへの差し止め命令を出した。これによって、中絶クリニック前でのデモや封鎖は、法律上は中止に追い込まれることになったが(河野2006:100)、現在まで散発的なクリックへの攻撃は続いている[6]。ちなみに、1998年のシャイドラ―に対する判決は、ブッシュ政権下の2003年の連邦最高裁判決で覆り、シャイドラ―への差し止め命令も解除されている。

 

 プロライフ派の活動は原理主義的なグループによる中絶クリニックへのテロ行為という印象が強くあるが、プロライフ派の活動として、河野(2006:100-102)は、「プロライフ行動連盟」への取材に基づいて、プロライフ派が妊婦や子育て女性、子育て家族の支援や養子縁組の推進などの活動も行っていることを報告している。

 

 80年代のテレビ伝道師ジェリー・ファルウェルに代わって、90年代に影響力を誇るようになった南部バプティスト連盟の牧師(minister)でペンテコステ派聖霊派)のパット・ロバートソンは、クリスチャン・コアリションを1989年に創設し、宗教保守の政治的動員を成功させていった。フェミニズムバックラッシュに火をつけた、人工妊娠中絶問題は、1990年代以降も国論を二分する政治的論点となり続けている。

 

 

 

【注】

[1] これは、法廷での匿名性を確保するための名前である。のちに、彼女は「Jane Roeは私だ」として本名(ノーマ・マコービー、1947 - 2017)を明らかにし、人工中絶反対派に転じたことで、話題を集めた。

[2] 「Care Net」ホームページ「History」を参照( https://www.care-net.org/history )。2013年現在、北米に1100のaffiliated pregnancy centerを有する。

[3] イギリスのサッチャーレーガンと政策・思想上の共通点が多いが、サッチャーは人工中絶問題に関しては、無関心だった点が、レーガンとは異なっている。

イギリスでは、1967年に労働党下院議員の議員立法によって中絶が合法化され、アメリカと同様にその後、宗教保守運動による反対キャンペーンが高まった。しかし、「オールトン議員が議員立法で、中絶制限法案を提示、第二読会まで通過したが、この問題に関して冷淡・中立的なサッチャー内閣が本会議で審議時間の延長を拒否したため、審議未了で廃案になった」(:8)。イギリスでは、中絶問題に関する限り、両党とも、態度を留保し中立を保ったため、宗教保守団体は政党を活用することができなかった。「イギリスでは、アメリカのように中絶問題で最高裁が出る幕はなく、憲法に関わる問題と考えられたこともない。さらに国会以外での立法は不可能であり、イギリス中絶反対運動は少なくとも政治的には、ほとんど成果を上げられなかったと言える」(:8)。

[4] NAF発行の「2017 VIOLENCE AND DISRUPTION STATISTICS Reports」( https://prochoice.org/wp-content/uploads/2017-NAF-Violence-and-Disruption-Statistics.pdf 2019/04/29閲覧)によれば、77年から99年までの間に、中絶を提供するもの(abortion provider)に対する殺人7件、殺人未遂16件、破壊40件、放火160件、破壊行為(Vandalism)819件、嫌がらせの手紙や電話((Hate Mail/Harassing Calls)6519件、ピケ(Picketing)30784件が起こっている。封鎖という出来事が起こったクリニック(Clinic Blockades)は674カ所、逮捕者は33827人に及ぶ。

[5] プロチョイス派(中絶権保護)の主要団体として、NOW(National Organization for Women、全米女性機構)やNARAL(National Abortion Right Action League、妊娠中絶権擁護全国連盟)など。

[6]  前述のNAF発行データ(同上)でも確認できるように、これらの活動は2017年まで継続的に行われている。77年から2017年までの合計は、殺人11件、殺人未遂26件、爆破42件、放火187件、脅迫(Death Threats/Threats of Harm)607件。炭疽菌バイオテロリズム(Anthrax/Bioterrorism Threats)は2000年から2009年に大方が行われ、合計で663件。嫌がらせの手紙や電話(合計17,135件)やピケ(合計330,584件)も衰える様子がない。例えば、ピケは、2000-2009年に110,600 件、2010-2017に189,200件となっており、単純計算で一年あたり1万件以上のピケが起こっていることがわかる。

 

【文献】

河野博子, 2006, 『アメリカの原理主義集英社新書.

黒澤修一郎, 2010, 「Roe判決とバックラッシュ・テーゼ(2・完)」『北大法学論集』61(2): 605-646.

大津留智恵子, 1991, 「シングル ・イシュー政治の排他性:中絶をめぐる市民運動の性格」『アメリカ研究』25: 143-159.

フェミニズム・バックラッシュの歴史まとめ1

或る原稿のために書いた文章ですが、ざっくり全面カットすることにしたので、ここに掲載させてください(ウェブページで読む用の文体ではないので若干読みづらいところはあるのですが)。

のちほどどこかで使う可能性があるので、「ここの事実認識間違っているよ」等のご指摘がありましたら頂けるとありがたいです。

 

 

1. アメリカのバックラッシュ

 バックラッシュとは、ある観念や思想が一定の一般性(popularity)を得たあとに発生する、ある観念や思想に対する否定的、敵対的な反応(negative and/or hostile reaction)のことである。

 アメリカで起こった、フェミニズムの社会的浸透に対するバックラッシュ(揺り戻し、反動)は、大きく

 

(1)男女平等を憲法に盛り込むEqual Rights Amendment(アメリカ合衆国憲法平等権修正条項と訳されることが多い、以下ERAと表記)反対運動として、

 

(2)1973年のアメリカ合衆国最高裁判所の人工妊娠中絶の権利を認めた判決(ロウ対ウェイド(Roe v. Wade)事件判決)後の、人工妊娠中絶をめぐる議論と対立の深刻化として、

 

1970年代後半から1980年代に起こった

宗教保守・政治保守勢力は(1)(2)を、「家族」という価値と社会的道徳の基盤を揺さぶる脅威として受け止め、フェミニズムに対するバッシングを開始していった。

フェミニスト側は決して家族の価値を貶めようとしているわけではなく、保守派は決して女性の権利を踏みにじっても良いと考えているわけではない。同じ主題に対するフレーミングが異なっているために意見の対立と運動の激化がもたらされている。

 

(1)ERA反対運動

 1920年婦人参政権が成立したアメリカにおいて、次の女性運動の目標となったのがERAの成立だった。1923年に起草され、National Woman’s Party(NWP、全国婦人党、1913年結成、婦人参政権運動における戦闘派)のアリス・ポール(1885-1977)を中心に運動が続けられてきた。

 当初、ERAは女性労働者保護を不可能にしてしまうという理由で、多くの女性から反対されてきた。ソーシャル・フェミニストだけでなく、同じNWPに属しともに参政権運動を戦ってきたNWP重要メンバーのフローレンス・ケリーや労働省婦人局長メアリー・アンダーソンも、反対を表明していた(有賀1988:190)。

 しかし、1938年の公正労働基準法によって「それまでソーシャル・フェミニストたちが要求していた女性労働者のための保護立法が、男女両方の労働者を保護するための一般的な法として実現すると、それ以上の、女性だけを保護する法律はかえって女性差別の口実に使われるという議論も説得力を持つように」なっていく(有賀1988:193-194)。

 

 まず、専門職ホワイトカラーの女性組織――The National Federation of Business and Professional Women's clubs(NFBPWC、全国実業および専門職女性クラブ連合、37年に支持を表明)や、医者、弁護士、公務員などの有職婦人の組織(30年代に支持を表明)――、中産階級の主婦の最大組織婦人クラブ総連合(44年に支持を表明)などがERA支持を表明するようになる。

 だが、50年代に入ってもなお、女性労働者保護立法促進を目指す労働省婦人局や、National American Woman Suffrage Association(NAWSA、全国アメリ婦人参政権協会、婦人参政権運動における穏健派)の後身でありソーシャル・フェミニズムの色彩の強いLeague of Women Voters(LWV、婦人有権者同盟)、Women’s Trade Union League(WTUL、婦人労働組合連盟)は、ERA反対の立場を崩さなかった(有賀1988:193、兼子 2010:199-201)。

 

 その後、1963年に公民権運動の成果として平等賃金法(公民権法第7篇)が成立すると、1960年代後半に次々と生まれた新しい女性運動組織がERAを支持するようになる。

 また、「70年代頃になると、連邦裁判所も雇用機会平等委員会(EEOC)も、公民権法第7篇は従来の性別保護法を無効にするが、それは女性から伝統的保護を取り上げるのではなく男性にもそれを拡大する方向によってであると解釈するようになり、ここにようやくERAに対する長年の懸念が解消して、労働組合労働省、反対派の女性組織もERA支持に回ることとなった」(荻野2001:176)。

 1972年に両党の支持を得てERAが連邦議会で承認され、38州以上の批准が得られれば発行するまでに至った。73年はじめまでに24州が批准したが、この頃、女性の人工中絶の権利を認める最高裁の判決(詳細は後述)が出る(荻野2001:177)。1970年代後半には、バックラッシュ派によるERA反対運動が発生した。1977年にインディアナ州が35番目の批准州となったが、その後は続かず、1982年6月30日の批准期限までに規定数の38州に達しなかったため不成立となった。

 

 ERAは、第二波フェミニズムの高まりを背景に、多くの女性団体が一つの目標に向けてまとまったことで、ようやく連邦議会を通過したものであった。その意味で、ERAは、第二波フェミニズムウーマンリブの達成の象徴と見なされていたところがある。リベラルフェミニズムの代表的勢力のひとつであるNational Organization for Women(NOW、全米女性機構)や、80近くの組織からなる連盟(coalition)である「ERAmerica」は、精力的に推進活動を行い、批准期限延長のため1978年の7月にはWashington D.C.で、10万人のサポーターによるマーチを行っている[1]

 

 それに対する、ERA反対運動は、1974年に女性労働者保護を主張するソーシャル・フェミニストの組織American Federation of Labor and Congress of Industrial Organizations(AFL-CIO、アメリカ労働総同盟・産業別組合会議がERA支持派に加わった後は、保守的、右翼的な主張傾向を持つ団体によって展開されていく。

 

 アメリカにおいてニューライトと呼ばれる、キリスト教保守派が政治的に動員されて形成され勢力として可視化され始めたのが、1970年代だ。なかでも、ERA反対勢力を組織した代表的な人物として、保守系活動家のフィリス・シュラフリー(1924-2016)がいる[2]

 彼女は、1972年にEagle Forum[3]を創設し、STOP-ERAキャンペーンを始めた。「STOP」は、「Stop Taking Our Privileges(私達の特権を取り上げるな)」の頭文字で、ERAが成立すれば、夫による妻の扶養義務が廃止され、離婚しても扶養料や子どもの親権が認められなくなり、働きに出たくない女性まで子どもを保育所に預けて働きに出なければならなくなる。公共のトイレが男女共用となり、刑務所でも男女の区別がなくなり、女性もまた徴兵リストにリストアップされるようになる(アメリカの徴兵制が廃止されたのは、ベトナム戦争の和平協定締結後の1973年1月である)と、シュラフリーは警告した。

 また、ERAを始めとするフェミニズムの伸張は、人工妊娠中絶の権利を女性に認めることになり、「伝統的家族」ではない同性婚を増やすとして、多くの白人中産階級専業主婦たちの不安を煽って動員していった(Bystrom and Burrell 2019: 510-512)。「73年2月までに南部と中西部を中心に26州でERA反対運動が始まり、「STOP ERAニュース」の購読者は81年までに3万人にのぼった」とされている(荻野2001:180)。

 

 ほかにも、ERA反対運動勢力として、90年代にベストセラーとなる『レフト・ビハインド』シリーズ[4]の著者で福音派の牧師ティモシー・ラヘイ(1926-2016)の妻のBeverly LaHayeが1979年に創設した「Concerned Women for America(アメリカを憂える女性たち)」などもある。これら宗教保守、保守派は、フェミニズムを伝統的なジェンダー役割を混乱(disrupt)させるため、家族と子育てに対する脅威であると捉えていた。ちなみに、ERA支持派は1973年に、主婦たちによるHomemakers' Equal Rights Association (主婦平等権利協会)を結成している。

 さらに、1979年には、南部バプティスト連盟の牧師で、60年代末から70年代にカリスマ的なテレビ伝道師(televangelist)として人気を誇っていたジェリー・ファルウェル(1933-2007)が保守派圧力団体「モラル・マジョリティ」の指導者となり、精力的にERA反対運動を展開した。モラル・マジョリティは1980年のレーガン大統領選出、1984年の再選を支えた勢力でもある[5]

 1980年代の米レーガン政権、英サッチャー政権期に、道徳保守派によるバックラッシュは一層力をつけていく。性別役割を基本とする家族の価値を重視し、家族を基盤とする社会的道徳を重視する道徳保守的なイデオロギーアメリカではreligious conservativeやreligious right、Christian rightと呼ばれる)と、新自由主義的な経済政策とのアマルガムであるレーガン政権は、産業構造の転換、新自由主義政策による社会不安を、家族的価値、伝統的道徳の強化によって乗り切ろうとした。このなかで、フェミニズム-対-家族主義」という構図が作られていった

 

 穏健派リベラル・フェミニズムの最大勢力であるNOWは、当初、レズビアニズム・フォビアを隠そうともせず、またNOWに所属する黒人女性運動家たちが黒人運動を行うことに関してもERA達成の妨げになるとして、やめるよう要請するなどの動きをする。ERAを成立させるため、extremistを排し、穏健派の支持を広げることが運動の論理として必要だったからだ。

 だが、80年代のバックラッシュの激しさのなかで、NOWは、ERAと女性の人工中絶の権利、同性愛の権利を同列に支持するようになっていく。それによって、保守派はさらに「フェミニズムは家族の破壊をもたらす過激で危険な主張」であると認識するようになっていく。

 

 荻野美穂(2001:181-2)は、ERA反対運動が、男性と対等なキャリア形成機会の獲得を目指す中産階級白人女性(リベラル・フェミニズムと、白人中産階級の専業主婦女性との、「女の定義と解釈をめぐる戦い」であったことを指摘している。

 シュラフリーは、ベティ・フリーダン(1921-2006)と同世代で、専業主婦としての子育て経験の後に運動を開始した点でも似ている。反ERA派の女性たちが、議会議員に対するロビー活動のさいに、シンボルカラーのピンクの服を着て、「パンを焼く人からパンを稼ぐ人へ」というカードを付けた自家製のパンやジャム、アップルパイを、議員たちに配るというデモンストレーションを行うと、ERA支持の女性たちは、「59セント」のバッジ(当時のジェンダー賃金格差の額。男性1ドルに対して、女性はフルタイムでも59セントしか稼げていなかった)を付けて、議員たちにバターを配った。ERAが女性にとって「パンとバター(bread and butter)の問題」、すなわち生計の手段であることを訴えるためだ(荻野2001:181-2)。

 また、1982年6月30日のERA期限切れ不成立のさいには、ワシントンでシュラフリーを中心に1400人の大祝賀会が開かれ、参加者の大多数は女性で、「女たちの大勝利」「女たちによる偉業」として祝った(荻野2001:184)。

 荻野は、このようなERAをめぐる対立を、「女」の定義や「女」の理想をめぐる女同士の戦いでもあったと論じている(荻野2001:190-191)。アメリカでは、60年代から脱専業主婦化が進み、70年代末には過半数を割った(外で仕事を持つ既婚女性割合は62年37%、78年58%となっている)。

 女性の経済的自立・自由を主張するフェミニストの登場によって、専業主婦の価値が貶められていると不安に思い、鬱憤をためていったと考えられる。「シュラフリーのアジテーションの果たした役割は、こうした専業主婦層の漠然とした不満や怒りのはけ口として、ERA反対運動という具体的な目標を与えたことである」(荻野2001:190-191)。

 ERAは、宗教保守層と政治的保守層の結びつきによるニューライト誕生のきっかけとなっただけでなく、「女」の定義や「女」の理想をめぐる女性間の違いや対立の可視化ももたらした(後述3.でさらに詳しく論じる)。

 

【注】

[1] 「Library of Congress」ホームページ内「American Memories」 >記事「THE LONG ROAD TO EQUALITY: WHAT WOMEN WON FROM THE ERA RATIFICATION EFFORT」(執筆者:Leslie W. Gladstone、http://www.memory.loc.gov/ammem/awhhtml/aw03e/aw03e.html)を参考。

[2] 有賀は、「公民権運動にも反感を示してきた組織がERAにも反対した」として、ジョン・バーチ・ソサエティクー・クラックス・クラン、モルモン協会、南部中心に組織された全国州検討、白人市民会議などを例として挙げ、「それらの組織をERA反対のために統合したのがフィリス・シュラフリーという自称主婦の、実際は右翼の活動家の女性であった」としている(有賀1988:197-8)。

[3] ホームページ「Eagle Forum」>「Phyllis Schlafly Bio – founder of Eagle Forum」(https://eagleforum.org/about/bio.html)による。イーグル・フォーラムは、2019年3月現在でも毎月全4頁程度の“Eagle Forum Report”を発行しており、継続的に活動していることが確認できる。ホームページ「Eagle Forum」(https://eagleforum.org/)を参照。

[4] 『レフト・ビハインド(取り残されて)』は、ティモシー・ラヘイと作家ジェリー・ジェンキンズの共著小説。1995 年から 2007年まで出版され、全16巻、第1巻は650万部、シリーズあわせて8000万部以上を売り上げた(売り上げ冊数については、ワシントンポストHP「Tim LaHaye, evangelical author of ‘Left Behind’ book series, dies at 90」(Harrison Smithによる、2016/7/25の記事 https://www.washingtonpost.com/entertainment/books/tim-lahaye-evangelical-author-of-left-behind -book-series-dies-at-90/2016/07/25/1f20d3a4-5286-11e6-b7de-dfe509430c39_story.html?utm_term=.f312cdd8c35d による)。

ラヘイの教義は、「前千年王国説」(ジョン・ダービー)に基づくもので、「世の終わり/終わりの時(エンドタイムズ)」「最終戦争(ハルマゲドン)」「反キリスト(悪魔の代理)」「キリスト再臨」、そして「携挙(ラプチャー)」などを核とする(波津2006:75)。この作品を論じた波津は、「この作品が、米政治に大きな影響力をもつ宗教右派の思想の核にある概念を物語にしたもの」(2006:74)としている。

ちなみに、ティモシー・ラヘイは、1979年にジェリー・ファルウェルを「モラル・マジョリティ」に引き入れ、1981年まで自らもモラル・マジョリティの指導者(director)の地位を得て、活動した。1981年には保守系シンクタンク「Council for National Policy (CNP)」の創設を助け、その後も、「American Coalition for Traditional Values」や「the Coalition for Religious Freedom」の共同創設者だった。その後90年代に小説執筆活動に取り組んだ福音派の牧師・活動家である。

[5] モラル・マジョリティは、「少数の保守政治家と保守的なプロテスタントによって組織された新宗教右翼と呼ばれる政治宗教団体であり、ジェリー・ファルウェル牧師を指導者に迎えてから、離婚・麻薬・犯罪の増加、加えて勤労意欲の低下・教育の荒廃等に危機感を抱くアメリカ人の中に急激にその影響力を強めている」(重藤 1986:58)。

 

 

 【文献】

荻野美穂, 2001, 『中絶論争とアメリカ社会:身体をめぐる戦争』岩波書店.

重藤信英, 1986, 「アメリカにおける政教分離とその今日的課題」『日本政教研究所紀要』10: 55-83.

 

ニヒリズムの極北ニーチェの魔力

0.人生を変えるものとしてのニーチェ
私は高校生の時にニーチェ思想にぶち当たってしまったために、人生が変わってしまった感がある。いや、そんなことを言えば、それ以外にも色々なあやまちはあったのであって(思想的に「あやしげ」(*)な人にばかり恋をしたりとか、とくに10代末から20代前半)、ニーチェ先生のせいだけにするのは申し訳ないような気もするが、仙台駅前のジュンク堂で立ち読みした『若き人々への言葉』(角川文庫、原田義人訳)で受けた衝撃によって、私が研究者生活への一歩を踏み出してしまったことはたしかだ。
  
いまニーチェを読み直せば、私が何に駆動されて「ドイツ観念論から社会学理論へ」という流れを躍起になって理解しようとしていたのか、その駆動因のようなものがわかりそうな気がするので、書き留めておこうと思う。
 
若さゆえのどうしようもなさとか激しさとかを抱え続けなければならなかった時期を通り過ぎた感のある現在だからこそ、見えてくるものもありそうな気もしているので。
 
 
1.ニーチェニヒリズムとは何だったのか
ニーチェ思想を一言で言うなら、
そこに何もないということが分かっていながら、なおそれを熱烈に求め続けること、すなわち「求め続けるという形で激烈に生きること」を肯定しようという思想。
 
ニーチェが熱烈に追い求めるものは、「実存」だったり「文化」だったり。失墜した神がかつて占めていた「空白」を埋めてくれる「超越性を帯びた価値」(**)。これらの超越的価値に少しでも近づこうとすることそのものを、甘美に称揚するのがロマン主義
 
ニーチェロマン主義(例えば18世紀ドイツロマン主義)を分かつ点は、「超越的価値」とは、実際に自分がそこに辿り着いてしまえば価値を失うようなもの(もしくは最初から失われていた価値であること)に、最初からかなりの程度気づいている点であり、気づいていてもなお、自らの実存(生きる意味)を追い求め、「強い決断」や「激しい苦悩」の中で生き抜くことを称揚するという態度にある。
 
「我々は実存を何か果敢で危険なものとして考えなければならない、殊に、人は実存を良きにつけ悪しきにつけ、結局見失うのであるから、そうしなければならない。」(『若き人々への言葉』角川文庫、原田義人訳、p.24)

 

追い求めた先に何もないことがかなりの程度分かっているがゆえに、ニーチェロマン主義者ではなくニヒリストなのだが、

凡百のニヒリストとニーチェが異なるのは、超越的価値はすでに失われており自分が一生懸命それを探求しよう(真実に近づこう)とかそれをつかみ取ろうと汲々としたところで無為に終わる可能性があるということを分かっていながら、なお、「激烈に」超越的価値に近づこうとし続ける点だ(=これはのちにハイデガー的「決断」とか言われることになる点)。
 

 2.頑張っても何もない(無為に終わる)ことが分かっているのに、なぜ頑張れるのか(何に駆動されているのか)

素朴な疑問。自分の命や生涯をかけて追い求めていっても、その先には何もないかもしれない、もしくは、自分が見ていた価値はすでに失われたものだったということが分かるだけだ、という見通し(人生観)の中で、それでもなお「頑張る」ことができるのはなぜなのか?
 
ニーチェにおいては、次のような論理がある。
何もないかもしれないこと、結果が保証されていないことに向けて全力を尽くすがゆえに、その行動は「美しい」。そう、ここで美学の論理に接続するのであります。
 
たしかに、美とはそういうものですよね、最初から分かっている何かに向けて合目的的合理的に努力するのは「意義がある」し、勤勉でよいし、「尊い」行動だとも言えるが、「美しい」ではない。
 
ニーチェニヒリズムの魔力みたいなものは、保証されていない価値(すでに失われた価値)のために莫大なエネルギーを費やすという、非合理的なふるまいに生の輝きを見るというところにある。この論理は、たしかに現代でも否定できない。
 
→だから、若者は美しいというそういう論理になってくるのだが、この話はまた別の機会に。
  
 
(*)ちなみに、その「あやしげ」なところが魅力なのです、これ力説しとく(心的構造としては、「このバンドは将来絶対売れる」と思って応援し続けるバンギャや、地下アイドルを支持し続けるアイドルファンと同型だと思う、私の場合は一対一の恋愛関係をとっただけであって)。
 
(**)宗教的な神が失墜した後の、超越的価値の空白に入ったものが、18世紀は「自然」、19世紀は「文化」だった。「文化」とは、神から才能を与えられた一握りの天才の個性が生み出すもの=文化、これは同時に「民族」のすばらしさの到達点を示すものでもある)」だから、フランス文化よりドイツ文化がいかに優れているかという点が、戦争と並行して重大な問題になる。20世紀は「個人の人格的個性」が超越的価値を帯びたものになっているのではないかと、私は最近考えているところ。
 

社会構築主義以降の社会記述法 ストラザーン『部分的つながり』に見るハラウェイの可能性について

今年の夏は海外出張もなく(=研究費が取得できていないということ(泣))、自宅時間がけっこうとれたので、読みたかった本をたくさん読めました。とっても幸せであります。夏休み一生続けばいいのに。と願ったところで続くわけでもないので、自分の中の区切りとして、書いときます「2019夏休みの読書まとめ(第1弾)」。
 
1.文化人類学の知見が、社会学理論やジェンダー理論に与える示唆は大きい
文化人類学社会の記述法をずっと考え続けている。社会を記述するとはどういうことか、この記述法はどういう制約と可能性を持っているのか。文化人類学における「社会を記述すること」に関する深い考察と、その制度化(学位論文審査の時に何が要求されるか等)が、社会学理論に与える示唆は大きいので、社会学理論研究者は文化人類学がもたらす理論的知見だけでもきちんとおさえておく必要がある、と私は思っている。
 
 
2.ハラウェイに関する雑談・前置き
先日、こういう提起をある方から受けました。ポスト構造主義ジェンダーフェミニズム理論として、日本ではバトラーばかりが受容され、もう「半身」であるところのダナ・ハラウェイが、いまいち受容されていないのでは?と。たしかにそういうところはないこともないなと私も思う。 
そういえば、2019年初夏の日本女性学会で、文学系のフェミニズム研究者と「ここ10年くらい、男子大学院生がハラウェイを一生懸命読んで、学会でハラウェイが、ハラウェイがって言っている印象がある」と話していたところでした。( ちなみに「男子大学院生が」というところをどう解釈したらいいのかは難しいであり、別に意味を読み込む必要もないかと思っています。そもそも大学院生の男女比として男性の方が多いとかとか色々要因はあるし。)
・大学院生が大事って言っているものって、だいたい本当に大事なことが多いのは事実。院生が他の人に勧めたり、話題にしたり、一緒に読書会をしたりしているものって、狭い領域を越えて広く読まれるべき「古典」になりつつある本であることが多い(領域横断的な学科の院生の場合にはとくに)。「最近は何が新しく古典になっているんだろうか」ということを知りたければ、大学院生コミュニティに顔を出すのが最良であります。ハラウェイ大事なのはほぼ間違いない。
 
私はこれまでフェミニズムSFを検討した時とかに、ちょくちょくハラウェイ読んではいたのですが、なんかピンときてなかった。
が、今回ストラザーンを読んだら、ハラウェイの可能性がちょっと見えてきました。ということで、今回は、ポスト構造主義社会学だと社会構築主義)以降の社会記述法に関するストラザーンから見たハラウェイの可能性を明らかにします。
 
 
3.社会全体を俯瞰する視線への懐疑
構造主義を批判するポスト構造主義が登場し、社会学では社会構築主義が登場して以来、文化人類学でも社会学でも繰り返し、次のことが考察されてきました。
 
●社会全体を俯瞰する超越的(超越論的)視点は、数ある認識枠組み(知的制度)の一つに過ぎず、西洋近代科学が作り出してきた一バージョンである。
 ・たとえば、個々の認識を積み上げることで、その総和として全体に至ることができるというような考え方が、それにあたる。
 
●社会全体を記述できるという視点を取ることへの懐疑。
●では、どのように新たに「社会」を認識し、書くことができるのか?(西洋流のパースペクティブ=遠近法ではない認識のあり方とは?)
 
 簡単にいえば、「社会全体を俯瞰できるかのような視点は西洋主義的であり、それゆえの限界を色々抱えている」ということ。
 
一神教の神様が上から俯瞰するように社会を把握するという知的枠組みをとらないとき、私たちはどのように社会を書くことができるのか、社会についての科学はいかにして可能なのかという問いに対して、大きく次の2つの立場が出てくる。
 
【1】社会の中を生きる個人(アクター、行為者、主体)を丁寧に見ていくべし。個人のなかに社会が集約している。→社会学では、自己論、アイデンティティ論、「心理学化する社会」論…として発展。
 
【2】社会的関係を丁寧に見ていくべし。社会全体がどうなっているかとかは、把握しきれなくても、部分的でもいいから、そこにある「関係」を丁寧に見ることで、社会が分かる。→アクターネットワークセオリー(ANT)とかエスノメソドロジーとか。私がゲオルク・ジンメルの「相互作用としての社会」という考え方が重要だとずっと思ってきたのも、このため。
 
ストラザーンは明瞭に、【1】を退けて【2】を支持するという立場。
具体的には、「部分」を書くべし、というのが彼女の主張。
 
 
4.ストラザーンは「部分的つながり」に何を見出したのか
ストラザーンの主張を一言でまとめると、
 
「部分」を「部分」と捉えるには、それを「全体の中の部分とする論理」(=社会的な論理)があるはず。その論理を書くことが、社会を書くことだ。
 
これすごく画期的だと思う。 なるほどー!目からウロコとはこのこと。
  
「(部分的であることは、〔全体の一部としてではなく、何かとの〕)つながりとしてのみ作用する。」(『部分的つながり』マリリン・ストラザーン[1991]2004=2015:52)
  
「彼女(ハラウェイ)のビジョンは、私が部分化可能性partibilityと呼んでいたものにとても近かった。部分化可能性とは、人格の断片化やそれに伴う他者を通じた再帰的な自己認識のことではなく、全体の半分をペアの片割れにする社会的な論理のことである。」(ibid.53)
 
「概念の成分分析を行うことは、それぞれの単位をひとつの領域の一部にする原理を適用することを意味する。ひとつの親族名称は、親族名称という分類の中の一員というわけである。」(ibid.28)
 
 
以上、ここまで前提となる文脈をおさえてきました。これをふまえ、次からは、ストラザーンはハラウェイの何をどう評価しているのか、について。
  
 
5.<ハラウェイーストラザーン>の社会記述法
ハラウェイと言えば、サイボーグ宣言(1985)。
ハラウェイの言うサイボーグとは、
 
(1)身体でも機械でもない存在。自然/文化や、女/男やといった二元論を乗り越えるもの。
サイボーグーーサイバネティックな有機体――とは、機械と生体の複合体(ハイブリット)であり、社会のリアリティと同時にフィクションを生き抜く生き物である(『猿と女とサイボーグ』ダナ・ハラウェイ 1991=2017:287)

 

(2)ポストジェンダー社会の生き物。
サイボーグは、バイセクシュアリティとも、前エディプス的共生とも、疎外されない労働とも、各部分が有する権力をすべて最終的に簒奪してより高次の一体性を得るような過程を介した有機的全体性への誘惑とも無縁である。ある意味で、サイボーグは、西欧的な意味での起源の物語を持たない(ibid.289)
 
ストラザーンは、このようなハラウェイのサイボーグにおける生体と機械のつながり方を重視。
 
「サイボーグは、比較可能性=等質性(comparatibity)を前提とせずにつながりを作ることができる。」(『部分的つながり』マリリン・ストラザーン[1991]2004=2015:134)
 
「一方が他方の可能性(capability)の実現ないし拡張なのだとしたら、その関係は同等でも包摂でもないだろう。」(ibid.134)
 
サイボーグの身体の中の機械的な部分と生体的な部分は、一方が他方を支配しようとしたり包摂しようとしたりしない。ただ、互いに相手の可能性を引き出そうとし、それによって自分の可能性を拡張しようとするだけだ。
そいういうつながりのあり方として成立する具体的な「もの」(=サイボーグ)のあり方が、二元論を越えていくコツだというのがストラザーンの考えなのだと思う。
ハラウェイは、二元論を越えていく具体的なつながりのあり方を「サイボーグ」という具体的な「もの」として提示し、その「もの」がどのような他の「もの」たちの配置の中で具現化(enbodied)されているのかを書いていくという思考・分析の方向性を指し示している。ストラザーンはハラウェイのこの思想の方向性に元気づけられ鼓舞されているようだ。
 ハラウェイの議論では、客観性とは、超越性ではなく、特定の具体的な身体化=具現化であることが判明する。(ibid.120)

 

 
まとめると、
社会を記述するためには、部分の「つながり」のあり方を書くことが重要。
その部分が、どのようなものの配置のなかで、具現化しているのか、そのありさまを書いていくことで、その部分を部分としている社会が見えてくる。
(*ここでいわれている「もの」は、かつての本質主義実在論への回帰ではない。社会構築主義の「あと」の実在論とでもいうべきものである。)
 
これが、ストラザーンの発見した社会記述の方法なのだということが分かりました。
 
*「ものの配置を書いていくこと」という記述方法については、アネマリー・モル『多としての身体―医療実践における存在論』が実践しており、そこでは具体的対象(動脈硬化)に即した綿密な記述が展開されているので、この方法論の有効性がより具体的に実感できます。
 
 
 
補足注記
ストラザーンのメラネシア研究に関する詳しい話をまとめることは私の力量を越えるので、他の方にお任せします。さまざまなインスピレーションを与えてくれる大変美しい文章です、ということだけ書き添えておきます。
 
それから、最後になりましたが、
私が今回、ストラザーン、モル、ハラウェイを勉強するさいの先生役を務めてくれた論文はこちらです。とても勉強になりました。 
橋爪太作, 2017, 「社会を持たない人々のなかで社会科学をする : マリリン・ストラザーン『部分的つながり』をめぐって」『相関社会科学』26:79-85. ( http://www.kiss.c.u-tokyo.ac.jp/docs/kss/vol26/vol2608.pdf )
ちなみに橋爪論文と本稿とでは主題も関心も異なっており、本稿の読解上のミス等の責任は基本的に高橋にあります。
 

【翻訳】Cotter, et. al., 2011 「ジェンダー革命の終わり?1977年から2008年の性別役割態度について」

 David Cotter, Joan M. Hermsen, Reeve Vanneman, 2011, "The End of the Gender Revolution? Gender Role Attitudes from 1977 to 2008", American Journal of Sociology, Vol.117:259-289.

 本文はここから入手できます http://www.vanneman.umd.edu/papers/cotterhv10.pdf

 

ひとことで言うと、アメリカの性別役割意識は一貫して弱まってきたわけではなく、1994年から2000年の間に、一時、性別役割意識が強まった時期があったよ、ということを指摘した論文。

 

アメリカのジェンダーバックラッシュは1980年代レーガン政権誕生期に起こっているのだけれど、その15年後の90年代中盤に、性別役割が支持されるという第二波フェミニズムの主張に逆行する動きがみられた、という話。

ちなみに、私はこれが「ポストフェミニズム」現象なのではないかと思っている。「I'm not a feminist, but...」と言う女性たちについて論じたポストフェミニズムの論文はこのあたりの時期を対象にしているものが多いので。(コッターは別にこの現象を「ポストフェミニズム」と呼んでいるわけではない。)

 

この論文は、永瀬圭・太郎丸博(2014)や、佐々木(2012)などでも言及されており、けっこう重要。

・永瀬圭, 太郎丸博, 2014, 「性役割意識のコーホート分析 --若者は保守化しているか
?」『ソシオロジ』58(3):19-33.(https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/185141/1/sociology_58%283%29_19.pdf 

・佐々木尚之、2012、「JGSS 累積データ 2000-2010 にみる日本人の性別役割分業意識の趨勢 ―Age-Period-Cohort Analysis の適用」『日本版総合的社会調査共同研究拠点 研究論文集』 12(JGSS Research Series No.9)), pp.69-80 ( http://jgss.daishodai.ac.jp/research/monographs/jgssm12/jgssm12_06.pdf 

 

 

 では、ちょっと丁寧に中身を紹介。

データ:General Social Survey(アメリカ合衆国の居住者で18歳以上の成人が対象)

 わかったこと:

1995年以降、ジェンダー平等志向の停滞(stagnation)や逆転(reversal)が見られる。

ベビーブーマー世代以降、コーホート間の差異は小さくなっており、95年以降、 コーホート置換によるジェンダー平等志向がもたらされなくなっている。

・1995年以降、ほとんどすべてのコーホートの男女、すべてのエスニシティアジア系アメリカ人を除く)、すべての教育レベルと所得レベルの層において、ジェンダー平等志向の停滞が見られた( Cotter et al., 2011:260)。

 

→したがって、すべてのコーホートが影響を受けるような社会文化的構造的な変化があったと考えられる。具体的には…

 

1)「ポピュラーカルチャーにおけるアンチフェミニストバックラッシュ」(ibid, 260)と、
2)1990年代後半の男性の所得(men’s earnings)の上昇による、妻の労働力化圧力の低下

アメリカでは、1960年代以降はじめて1990年代後半に、男性の所得上昇が家族世帯所得の中央値を押し上げており、それゆえ、母親の子育てが再度強調されたと考えることができる。90年代アメリカでは「母性神話(Mommy Myth)」や、“intensive motherhood”(Hays 1996)などが流行語になっていた(ibid, 264)。

 

原理主義エバンジェリカンは、保守的なジェンダーイデオロギーを支持していることが知られているが、GSSデータによれば、これらの宗教的な変化はゆっくりとしたものであり、1990年代の回転(turn around)を説明するものとはなりえない(ibid, 263)。

 

・1970年代から80年代には、人口全体の教育レベルの上昇が平等主義傾向を促していた。しかし、1990年代はゆっくりではあるが教育レベルが上昇し続けているのに対して、平等主義傾向は逆転した。教育レベルとジェンダー平等志向は連動しなくなっている(ibid, 263)

 

 

以下のグラフを見ると、1994年から2000年にかけて、平等志向が右肩上がりにならず、停滞していることが分かる。 

 

f:id:ytakahashi0505:20190827191212p:plain

【GSSデータに見るジェンダー態度の変化:1977-2008年(Cotter et al.2011:261より引用)】

*「強く同意と同意、強く非同意と非同意をそれぞれ足しあわせている。「わからない」は、「非平等主義(not egalitarian)にコード化。