ポストフェミニズムに関するブログ

ポストフェミニズムに関する基礎文献を紹介するブログ。時々(とくに大学の授業期間中は)ポスフェミに関する話題を書き綴ったり、高橋幸の研究ノート=備忘録になったりもします。『フェミニズムはもういらない、と彼女は言うけれど :ポストフェミニズムと「女らしさ」のゆくえ』(晃洋書房、2020)、発売中。

フェミニズム・バックラッシュの歴史まとめ2

(2)人工妊娠中絶反対運動

 アメリカでは、1960年代後半から、アメリカ合衆国憲法修正第14条を根拠とする女性の「プライバシーの権利」に基づいた中絶合法化を目指す運動がみられるようになった。1970年には妊娠中の未婚女性ジェーン・ロウ(Jane Roe[1]らが原告となって、妊娠中絶手術を禁止したテキサス州法を違憲であるとして訴訟を起こす。1973年に、最高裁は人工妊娠中絶を規制するアメリカ国内法の大部分を違憲無効とし、「初期三カ月の中絶」をプライバシー権に基づいて認める判決を下した(通称「ロウ判決」)。

 

 これをきっかけに、保守派のバックラッシュが始まる。カトリック教会が全面的にバックアップしたアメリカ国内最大規模のプロライフ(pro-life)団体National Right to Life Committee(NRLC、カトリック教会のジェームズ・マクヒュー神父により結成、1973年に本格的に反中絶ロビー活動を開始)や憲法修正を目的とする生命尊重憲法修正政治活動委員会(LAPAC、1973年結成)、Christian Action Council(1975年結成、1999年に「Care Net」と改名し現在も妊婦支援活動を行っている[2])などが活動を活発化させていく。プロライフ派フェミニストNGOであるFeminists for Life of America(FFL)も1972年に結成されている。

 

 州権(state’s right)を重視する保守派・プロライフ派は、州・地方自治体レベルでの州法・市条例等の成立を通して、具体的な成果を積み重ねていった。ロウ判決後の4か月間だけでも、各州議会には200近い中絶関連法案が提出され、ロウ判決では明らかでなかった部分を狙って、さまざまな規制(夫の同意書や未成年者の場合の親の同意書の義務化、中絶を希望する女性に24時間の再考機関を義務付ける、カウンセリングの名のもとに胎児の発達段階についての詳しい説明をする、報告や記録を残すことの義務付けなど)を課していった(荻野2001:99)。

 

 連邦議会レベルでもロウ判決の覆しが試みられた。まず、ロウ判決直後から、「中絶問題の法的取り扱いに関して州政府の広範な裁量を認める州権修正案(States’ Rights Amendment)」や、「胎児の権利に実体的な保障を与えようとする人間の生命修正案(Human Life Amendment)」などの憲法修正案が連邦議会に提出された。その数は1974年初頭の時点で58と報告されている(黒澤2010:56)。だが、「カトリック司教や一部のプロライフ運動団体の強硬な姿勢は、多くの上院議員の反発を招く結果となり」、上院司法小委員会(Senate Judiciary Subcommittee)を通過せず、1976年には棚上げが決定された(黒澤2010:57)。プロライフ派は、数多くの憲法修正案の提出を行ったが、実際の審議に付されることがない状態が続き、この点では苦戦している。

 

 ただし、連邦の低所得者向けの医療補助であるメディケイドを妊娠中絶に使用することを禁止する法案(ハイド修正案Hyde Amendment)は1976年に成立し、「これによって、貧困のためにメディケイドを受けている女性は、実質的に中絶を行うことが不可能となった」(大津留1991:148-9)。「中絶反対派の議員たちは、たとえ補助がなければ貧しい女性には中絶の費用が支払えないとしても、彼女たちの『不都合な』妊娠のつけを納税者に回すのは正しくないという議論を展開し、人々の間にある『大きな政府』や福祉政策に対する不満や反感に訴えた」(荻野2001:103)。その後、各州で同様のメディケイド停止の法律が成立していき、1979年末までに40州で制限が導入された(荻野2001:104)。

 

 連邦議会は、さらに公的資金助成制限を厳格化させていく。1977年の規定では「妊娠の継続が母親に深刻で長期的な身体的損傷を与えると2名の医師が判断する場合」は「例外扱い」とされ、中絶のための公的資金助成を受けて人工中絶できたが、1979年にはこの「例外扱い」が認められなくなる。さらに、1981年には「レイプや近親相姦による妊娠の場合」の例外扱いも認められなくなり、結局「生命の危険がある場合にしか」中絶が認められないことになった。「レイプや近親相姦による妊娠の場合」が、「例外扱い」として認められ、助成を受けられるようになったのは1993年である(黒澤2010:59)。これに対して、プロチョイス派は、政府援助を受けることができず、ヤミ堕胎を受けて死亡した27歳のロージイ・ヒメネスにちなんで「ロージイ基金」を設立し、貧しい女性の中絶費用を援助した。1975年から79年までの非合法堕胎の数は、5000から2万3000程度、堕胎が原因で死亡したのは17名、そのうち14名(82%)は、黒人とヒスパニック系である(荻野2001:105)。

 

 1970年代の反中絶運動の中心はカトリック教会だったが、70年代末頃からは、プロテスタント教会の中の原理主義派や福音教会派、モルモン協会などの宗教右翼(religious right)が運動に参入して勢力を伸ばし、1980年の大統領選では、妊娠中絶反対を明示した共和党レーガン[3]が勝つ。そして、80年代には中絶反対運動の暴力化が進んでいく。

 ベネディクト派修道士で戦闘的活動家として知られていたジョセフ・シャイドラ―のPro-Life Action League(PLAL、プロライフ行動連盟、のちにプロライフ行動ネットワークPLANに改称)や、地下テロ組織The Army of God(1982年に成立)、キリスト教原理主義保守団体Operation Rescue(OR、ランドール・テリーによって1988年に正式に組織として発足、主要メンバーは300人程度だが、全国の保守的なクリスチャンが献身的に運動に参加したため、草の根運動として大きなインパクトを持った)などの各地のプロライフ団体・組織による、戦闘的暴力的活動が頻発する。

 中絶クリニック入り口に大勢の人間が座り込んでクリニックを封鎖するピケ、中絶クリニックにやってくる女性の説得や妨害(「歩道カウンセリング」と呼ばれ、祈りを捧げたり賛美歌を歌ったりもした)、車のナンバーから患者の家を突き止めて付きまとう、近所や家族の間で患者の女性を非難して中絶したことを暴露する、クリニックに電話をかけ続けていつも話し中にし、患者が予約を取れないようにする、患者のふりをしてクリニックに入り、中で中絶反対の宣伝をする、クリニックの放火や爆破、クリニック医師・看護師・職員・ガードへの罵倒や嫌がらせ、スタッフの自宅にピケを張る、脅迫電話、殺人未遂、殺人、反中絶活動家の裁判を担当している裁判官への嫌がらせや脅迫、女性団体への暴力的攻撃などの戦闘的な反対運動が繰り広げられた[4](荻野:115, 118-119)。

 1986年の調査では、中絶を行っているクリニックや病院の47%(1250施設)が、85年末までに何らかの嫌がらせを受けた経験があると回答しており、85年中に中絶を受けた女性の83%が反中絶勢力からの脅威にさらされたことになる(荻野2001:116)。

 

 プロチョイス派[5]は、クリニックに入ろうとする女性をエスコートして嫌がらせから守ったり、ORに対する訴訟を起こしたりした。1986年にNOWはジョゼフ・シャイドラ―を相手取り、中絶クリニック前でのデモや座り込み、妨害活動の差し止め命令を求めて、シカゴ連邦地裁に民事の損害賠償請求訴訟を起こす。1994年にはクリントン政権下で、中絶クリニックを訪れる人の権利を保障するFACE法(Freedom of Access to Clinic Entrances Act、診療所訪問保障法)が成立し、1998年にはNOW対シャイドラー訴訟に関してシカゴ地裁がシャイドラーへの差し止め命令を出した。これによって、中絶クリニック前でのデモや封鎖は、法律上は中止に追い込まれることになったが(河野2006:100)、現在まで散発的なクリックへの攻撃は続いている[6]。ちなみに、1998年のシャイドラ―に対する判決は、ブッシュ政権下の2003年の連邦最高裁判決で覆り、シャイドラ―への差し止め命令も解除されている。

 

 プロライフ派の活動は原理主義的なグループによる中絶クリニックへのテロ行為という印象が強くあるが、プロライフ派の活動として、河野(2006:100-102)は、「プロライフ行動連盟」への取材に基づいて、プロライフ派が妊婦や子育て女性、子育て家族の支援や養子縁組の推進などの活動も行っていることを報告している。

 

 80年代のテレビ伝道師ジェリー・ファルウェルに代わって、90年代に影響力を誇るようになった南部バプティスト連盟の牧師(minister)でペンテコステ派聖霊派)のパット・ロバートソンは、クリスチャン・コアリションを1989年に創設し、宗教保守の政治的動員を成功させていった。フェミニズムバックラッシュに火をつけた、人工妊娠中絶問題は、1990年代以降も国論を二分する政治的論点となり続けている。

 

 

 

【注】

[1] これは、法廷での匿名性を確保するための名前である。のちに、彼女は「Jane Roeは私だ」として本名(ノーマ・マコービー、1947 - 2017)を明らかにし、人工中絶反対派に転じたことで、話題を集めた。

[2] 「Care Net」ホームページ「History」を参照( https://www.care-net.org/history )。2013年現在、北米に1100のaffiliated pregnancy centerを有する。

[3] イギリスのサッチャーレーガンと政策・思想上の共通点が多いが、サッチャーは人工中絶問題に関しては、無関心だった点が、レーガンとは異なっている。

イギリスでは、1967年に労働党下院議員の議員立法によって中絶が合法化され、アメリカと同様にその後、宗教保守運動による反対キャンペーンが高まった。しかし、「オールトン議員が議員立法で、中絶制限法案を提示、第二読会まで通過したが、この問題に関して冷淡・中立的なサッチャー内閣が本会議で審議時間の延長を拒否したため、審議未了で廃案になった」(:8)。イギリスでは、中絶問題に関する限り、両党とも、態度を留保し中立を保ったため、宗教保守団体は政党を活用することができなかった。「イギリスでは、アメリカのように中絶問題で最高裁が出る幕はなく、憲法に関わる問題と考えられたこともない。さらに国会以外での立法は不可能であり、イギリス中絶反対運動は少なくとも政治的には、ほとんど成果を上げられなかったと言える」(:8)。

[4] NAF発行の「2017 VIOLENCE AND DISRUPTION STATISTICS Reports」( https://prochoice.org/wp-content/uploads/2017-NAF-Violence-and-Disruption-Statistics.pdf 2019/04/29閲覧)によれば、77年から99年までの間に、中絶を提供するもの(abortion provider)に対する殺人7件、殺人未遂16件、破壊40件、放火160件、破壊行為(Vandalism)819件、嫌がらせの手紙や電話((Hate Mail/Harassing Calls)6519件、ピケ(Picketing)30784件が起こっている。封鎖という出来事が起こったクリニック(Clinic Blockades)は674カ所、逮捕者は33827人に及ぶ。

[5] プロチョイス派(中絶権保護)の主要団体として、NOW(National Organization for Women、全米女性機構)やNARAL(National Abortion Right Action League、妊娠中絶権擁護全国連盟)など。

[6]  前述のNAF発行データ(同上)でも確認できるように、これらの活動は2017年まで継続的に行われている。77年から2017年までの合計は、殺人11件、殺人未遂26件、爆破42件、放火187件、脅迫(Death Threats/Threats of Harm)607件。炭疽菌バイオテロリズム(Anthrax/Bioterrorism Threats)は2000年から2009年に大方が行われ、合計で663件。嫌がらせの手紙や電話(合計17,135件)やピケ(合計330,584件)も衰える様子がない。例えば、ピケは、2000-2009年に110,600 件、2010-2017に189,200件となっており、単純計算で一年あたり1万件以上のピケが起こっていることがわかる。

 

【文献】

河野博子, 2006, 『アメリカの原理主義集英社新書.

黒澤修一郎, 2010, 「Roe判決とバックラッシュ・テーゼ(2・完)」『北大法学論集』61(2): 605-646.

大津留智恵子, 1991, 「シングル ・イシュー政治の排他性:中絶をめぐる市民運動の性格」『アメリカ研究』25: 143-159.