ポストフェミニズムに関するブログ

ポストフェミニズムに関する基礎文献を紹介するブログ。時々(とくに大学の授業期間中は)ポスフェミに関する話題を書き綴ったり、高橋幸の研究ノート=備忘録になったりもします。『フェミニズムはもういらない、と彼女は言うけれど :ポストフェミニズムと「女らしさ」のゆくえ』(晃洋書房、2020)、発売中。

フェミニズム・バックラッシュの歴史まとめ1

或る原稿のために書いた文章ですが、ざっくり全面カットすることにしたので、ここに掲載させてください(ウェブページで読む用の文体ではないので若干読みづらいところはあるのですが)。

のちほどどこかで使う可能性があるので、「ここの事実認識間違っているよ」等のご指摘がありましたら頂けるとありがたいです。

 

 

1. アメリカのバックラッシュ

 バックラッシュとは、ある観念や思想が一定の一般性(popularity)を得たあとに発生する、ある観念や思想に対する否定的、敵対的な反応(negative and/or hostile reaction)のことである。

 アメリカで起こった、フェミニズムの社会的浸透に対するバックラッシュ(揺り戻し、反動)は、大きく

 

(1)男女平等を憲法に盛り込むEqual Rights Amendment(アメリカ合衆国憲法平等権修正条項と訳されることが多い、以下ERAと表記)反対運動として、

 

(2)1973年のアメリカ合衆国最高裁判所の人工妊娠中絶の権利を認めた判決(ロウ対ウェイド(Roe v. Wade)事件判決)後の、人工妊娠中絶をめぐる議論と対立の深刻化として、

 

1970年代後半から1980年代に起こった

宗教保守・政治保守勢力は(1)(2)を、「家族」という価値と社会的道徳の基盤を揺さぶる脅威として受け止め、フェミニズムに対するバッシングを開始していった。

フェミニスト側は決して家族の価値を貶めようとしているわけではなく、保守派は決して女性の権利を踏みにじっても良いと考えているわけではない。同じ主題に対するフレーミングが異なっているために意見の対立と運動の激化がもたらされている。

 

(1)ERA反対運動

 1920年婦人参政権が成立したアメリカにおいて、次の女性運動の目標となったのがERAの成立だった。1923年に起草され、National Woman’s Party(NWP、全国婦人党、1913年結成、婦人参政権運動における戦闘派)のアリス・ポール(1885-1977)を中心に運動が続けられてきた。

 当初、ERAは女性労働者保護を不可能にしてしまうという理由で、多くの女性から反対されてきた。ソーシャル・フェミニストだけでなく、同じNWPに属しともに参政権運動を戦ってきたNWP重要メンバーのフローレンス・ケリーや労働省婦人局長メアリー・アンダーソンも、反対を表明していた(有賀1988:190)。

 しかし、1938年の公正労働基準法によって「それまでソーシャル・フェミニストたちが要求していた女性労働者のための保護立法が、男女両方の労働者を保護するための一般的な法として実現すると、それ以上の、女性だけを保護する法律はかえって女性差別の口実に使われるという議論も説得力を持つように」なっていく(有賀1988:193-194)。

 

 まず、専門職ホワイトカラーの女性組織――The National Federation of Business and Professional Women's clubs(NFBPWC、全国実業および専門職女性クラブ連合、37年に支持を表明)や、医者、弁護士、公務員などの有職婦人の組織(30年代に支持を表明)――、中産階級の主婦の最大組織婦人クラブ総連合(44年に支持を表明)などがERA支持を表明するようになる。

 だが、50年代に入ってもなお、女性労働者保護立法促進を目指す労働省婦人局や、National American Woman Suffrage Association(NAWSA、全国アメリ婦人参政権協会、婦人参政権運動における穏健派)の後身でありソーシャル・フェミニズムの色彩の強いLeague of Women Voters(LWV、婦人有権者同盟)、Women’s Trade Union League(WTUL、婦人労働組合連盟)は、ERA反対の立場を崩さなかった(有賀1988:193、兼子 2010:199-201)。

 

 その後、1963年に公民権運動の成果として平等賃金法(公民権法第7篇)が成立すると、1960年代後半に次々と生まれた新しい女性運動組織がERAを支持するようになる。

 また、「70年代頃になると、連邦裁判所も雇用機会平等委員会(EEOC)も、公民権法第7篇は従来の性別保護法を無効にするが、それは女性から伝統的保護を取り上げるのではなく男性にもそれを拡大する方向によってであると解釈するようになり、ここにようやくERAに対する長年の懸念が解消して、労働組合労働省、反対派の女性組織もERA支持に回ることとなった」(荻野2001:176)。

 1972年に両党の支持を得てERAが連邦議会で承認され、38州以上の批准が得られれば発行するまでに至った。73年はじめまでに24州が批准したが、この頃、女性の人工中絶の権利を認める最高裁の判決(詳細は後述)が出る(荻野2001:177)。1970年代後半には、バックラッシュ派によるERA反対運動が発生した。1977年にインディアナ州が35番目の批准州となったが、その後は続かず、1982年6月30日の批准期限までに規定数の38州に達しなかったため不成立となった。

 

 ERAは、第二波フェミニズムの高まりを背景に、多くの女性団体が一つの目標に向けてまとまったことで、ようやく連邦議会を通過したものであった。その意味で、ERAは、第二波フェミニズムウーマンリブの達成の象徴と見なされていたところがある。リベラルフェミニズムの代表的勢力のひとつであるNational Organization for Women(NOW、全米女性機構)や、80近くの組織からなる連盟(coalition)である「ERAmerica」は、精力的に推進活動を行い、批准期限延長のため1978年の7月にはWashington D.C.で、10万人のサポーターによるマーチを行っている[1]

 

 それに対する、ERA反対運動は、1974年に女性労働者保護を主張するソーシャル・フェミニストの組織American Federation of Labor and Congress of Industrial Organizations(AFL-CIO、アメリカ労働総同盟・産業別組合会議がERA支持派に加わった後は、保守的、右翼的な主張傾向を持つ団体によって展開されていく。

 

 アメリカにおいてニューライトと呼ばれる、キリスト教保守派が政治的に動員されて形成され勢力として可視化され始めたのが、1970年代だ。なかでも、ERA反対勢力を組織した代表的な人物として、保守系活動家のフィリス・シュラフリー(1924-2016)がいる[2]

 彼女は、1972年にEagle Forum[3]を創設し、STOP-ERAキャンペーンを始めた。「STOP」は、「Stop Taking Our Privileges(私達の特権を取り上げるな)」の頭文字で、ERAが成立すれば、夫による妻の扶養義務が廃止され、離婚しても扶養料や子どもの親権が認められなくなり、働きに出たくない女性まで子どもを保育所に預けて働きに出なければならなくなる。公共のトイレが男女共用となり、刑務所でも男女の区別がなくなり、女性もまた徴兵リストにリストアップされるようになる(アメリカの徴兵制が廃止されたのは、ベトナム戦争の和平協定締結後の1973年1月である)と、シュラフリーは警告した。

 また、ERAを始めとするフェミニズムの伸張は、人工妊娠中絶の権利を女性に認めることになり、「伝統的家族」ではない同性婚を増やすとして、多くの白人中産階級専業主婦たちの不安を煽って動員していった(Bystrom and Burrell 2019: 510-512)。「73年2月までに南部と中西部を中心に26州でERA反対運動が始まり、「STOP ERAニュース」の購読者は81年までに3万人にのぼった」とされている(荻野2001:180)。

 

 ほかにも、ERA反対運動勢力として、90年代にベストセラーとなる『レフト・ビハインド』シリーズ[4]の著者で福音派の牧師ティモシー・ラヘイ(1926-2016)の妻のBeverly LaHayeが1979年に創設した「Concerned Women for America(アメリカを憂える女性たち)」などもある。これら宗教保守、保守派は、フェミニズムを伝統的なジェンダー役割を混乱(disrupt)させるため、家族と子育てに対する脅威であると捉えていた。ちなみに、ERA支持派は1973年に、主婦たちによるHomemakers' Equal Rights Association (主婦平等権利協会)を結成している。

 さらに、1979年には、南部バプティスト連盟の牧師で、60年代末から70年代にカリスマ的なテレビ伝道師(televangelist)として人気を誇っていたジェリー・ファルウェル(1933-2007)が保守派圧力団体「モラル・マジョリティ」の指導者となり、精力的にERA反対運動を展開した。モラル・マジョリティは1980年のレーガン大統領選出、1984年の再選を支えた勢力でもある[5]

 1980年代の米レーガン政権、英サッチャー政権期に、道徳保守派によるバックラッシュは一層力をつけていく。性別役割を基本とする家族の価値を重視し、家族を基盤とする社会的道徳を重視する道徳保守的なイデオロギーアメリカではreligious conservativeやreligious right、Christian rightと呼ばれる)と、新自由主義的な経済政策とのアマルガムであるレーガン政権は、産業構造の転換、新自由主義政策による社会不安を、家族的価値、伝統的道徳の強化によって乗り切ろうとした。このなかで、フェミニズム-対-家族主義」という構図が作られていった

 

 穏健派リベラル・フェミニズムの最大勢力であるNOWは、当初、レズビアニズム・フォビアを隠そうともせず、またNOWに所属する黒人女性運動家たちが黒人運動を行うことに関してもERA達成の妨げになるとして、やめるよう要請するなどの動きをする。ERAを成立させるため、extremistを排し、穏健派の支持を広げることが運動の論理として必要だったからだ。

 だが、80年代のバックラッシュの激しさのなかで、NOWは、ERAと女性の人工中絶の権利、同性愛の権利を同列に支持するようになっていく。それによって、保守派はさらに「フェミニズムは家族の破壊をもたらす過激で危険な主張」であると認識するようになっていく。

 

 荻野美穂(2001:181-2)は、ERA反対運動が、男性と対等なキャリア形成機会の獲得を目指す中産階級白人女性(リベラル・フェミニズムと、白人中産階級の専業主婦女性との、「女の定義と解釈をめぐる戦い」であったことを指摘している。

 シュラフリーは、ベティ・フリーダン(1921-2006)と同世代で、専業主婦としての子育て経験の後に運動を開始した点でも似ている。反ERA派の女性たちが、議会議員に対するロビー活動のさいに、シンボルカラーのピンクの服を着て、「パンを焼く人からパンを稼ぐ人へ」というカードを付けた自家製のパンやジャム、アップルパイを、議員たちに配るというデモンストレーションを行うと、ERA支持の女性たちは、「59セント」のバッジ(当時のジェンダー賃金格差の額。男性1ドルに対して、女性はフルタイムでも59セントしか稼げていなかった)を付けて、議員たちにバターを配った。ERAが女性にとって「パンとバター(bread and butter)の問題」、すなわち生計の手段であることを訴えるためだ(荻野2001:181-2)。

 また、1982年6月30日のERA期限切れ不成立のさいには、ワシントンでシュラフリーを中心に1400人の大祝賀会が開かれ、参加者の大多数は女性で、「女たちの大勝利」「女たちによる偉業」として祝った(荻野2001:184)。

 荻野は、このようなERAをめぐる対立を、「女」の定義や「女」の理想をめぐる女同士の戦いでもあったと論じている(荻野2001:190-191)。アメリカでは、60年代から脱専業主婦化が進み、70年代末には過半数を割った(外で仕事を持つ既婚女性割合は62年37%、78年58%となっている)。

 女性の経済的自立・自由を主張するフェミニストの登場によって、専業主婦の価値が貶められていると不安に思い、鬱憤をためていったと考えられる。「シュラフリーのアジテーションの果たした役割は、こうした専業主婦層の漠然とした不満や怒りのはけ口として、ERA反対運動という具体的な目標を与えたことである」(荻野2001:190-191)。

 ERAは、宗教保守層と政治的保守層の結びつきによるニューライト誕生のきっかけとなっただけでなく、「女」の定義や「女」の理想をめぐる女性間の違いや対立の可視化ももたらした(後述3.でさらに詳しく論じる)。

 

【注】

[1] 「Library of Congress」ホームページ内「American Memories」 >記事「THE LONG ROAD TO EQUALITY: WHAT WOMEN WON FROM THE ERA RATIFICATION EFFORT」(執筆者:Leslie W. Gladstone、http://www.memory.loc.gov/ammem/awhhtml/aw03e/aw03e.html)を参考。

[2] 有賀は、「公民権運動にも反感を示してきた組織がERAにも反対した」として、ジョン・バーチ・ソサエティクー・クラックス・クラン、モルモン協会、南部中心に組織された全国州検討、白人市民会議などを例として挙げ、「それらの組織をERA反対のために統合したのがフィリス・シュラフリーという自称主婦の、実際は右翼の活動家の女性であった」としている(有賀1988:197-8)。

[3] ホームページ「Eagle Forum」>「Phyllis Schlafly Bio – founder of Eagle Forum」(https://eagleforum.org/about/bio.html)による。イーグル・フォーラムは、2019年3月現在でも毎月全4頁程度の“Eagle Forum Report”を発行しており、継続的に活動していることが確認できる。ホームページ「Eagle Forum」(https://eagleforum.org/)を参照。

[4] 『レフト・ビハインド(取り残されて)』は、ティモシー・ラヘイと作家ジェリー・ジェンキンズの共著小説。1995 年から 2007年まで出版され、全16巻、第1巻は650万部、シリーズあわせて8000万部以上を売り上げた(売り上げ冊数については、ワシントンポストHP「Tim LaHaye, evangelical author of ‘Left Behind’ book series, dies at 90」(Harrison Smithによる、2016/7/25の記事 https://www.washingtonpost.com/entertainment/books/tim-lahaye-evangelical-author-of-left-behind -book-series-dies-at-90/2016/07/25/1f20d3a4-5286-11e6-b7de-dfe509430c39_story.html?utm_term=.f312cdd8c35d による)。

ラヘイの教義は、「前千年王国説」(ジョン・ダービー)に基づくもので、「世の終わり/終わりの時(エンドタイムズ)」「最終戦争(ハルマゲドン)」「反キリスト(悪魔の代理)」「キリスト再臨」、そして「携挙(ラプチャー)」などを核とする(波津2006:75)。この作品を論じた波津は、「この作品が、米政治に大きな影響力をもつ宗教右派の思想の核にある概念を物語にしたもの」(2006:74)としている。

ちなみに、ティモシー・ラヘイは、1979年にジェリー・ファルウェルを「モラル・マジョリティ」に引き入れ、1981年まで自らもモラル・マジョリティの指導者(director)の地位を得て、活動した。1981年には保守系シンクタンク「Council for National Policy (CNP)」の創設を助け、その後も、「American Coalition for Traditional Values」や「the Coalition for Religious Freedom」の共同創設者だった。その後90年代に小説執筆活動に取り組んだ福音派の牧師・活動家である。

[5] モラル・マジョリティは、「少数の保守政治家と保守的なプロテスタントによって組織された新宗教右翼と呼ばれる政治宗教団体であり、ジェリー・ファルウェル牧師を指導者に迎えてから、離婚・麻薬・犯罪の増加、加えて勤労意欲の低下・教育の荒廃等に危機感を抱くアメリカ人の中に急激にその影響力を強めている」(重藤 1986:58)。

 

 

 【文献】

荻野美穂, 2001, 『中絶論争とアメリカ社会:身体をめぐる戦争』岩波書店.

重藤信英, 1986, 「アメリカにおける政教分離とその今日的課題」『日本政教研究所紀要』10: 55-83.