ポストフェミニズムに関するブログ

ポストフェミニズムに関する基礎文献を紹介するブログ。時々(とくに大学の授業期間中は)ポスフェミに関する話題を書き綴ったり、高橋幸の研究ノート=備忘録になったりもします。『フェミニズムはもういらない、と彼女は言うけれど :ポストフェミニズムと「女らしさ」のゆくえ』(晃洋書房、2020)、発売中。

ニヒリズムの極北ニーチェの魔力

0.人生を変えるものとしてのニーチェ
私は高校生の時にニーチェ思想にぶち当たってしまったために、人生が変わってしまった感がある。いや、そんなことを言えば、それ以外にも色々なあやまちはあったのであって(思想的に「あやしげ」(*)な人にばかり恋をしたりとか、とくに10代末から20代前半)、ニーチェ先生のせいだけにするのは申し訳ないような気もするが、仙台駅前のジュンク堂で立ち読みした『若き人々への言葉』(角川文庫、原田義人訳)で受けた衝撃によって、私が研究者生活への一歩を踏み出してしまったことはたしかだ。
  
いまニーチェを読み直せば、私が何に駆動されて「ドイツ観念論から社会学理論へ」という流れを躍起になって理解しようとしていたのか、その駆動因のようなものがわかりそうな気がするので、書き留めておこうと思う。
 
若さゆえのどうしようもなさとか激しさとかを抱え続けなければならなかった時期を通り過ぎた感のある現在だからこそ、見えてくるものもありそうな気もしているので。
 
 
1.ニーチェニヒリズムとは何だったのか
ニーチェ思想を一言で言うなら、
そこに何もないということが分かっていながら、なおそれを熱烈に求め続けること、すなわち「求め続けるという形で激烈に生きること」を肯定しようという思想。
 
ニーチェが熱烈に追い求めるものは、「実存」だったり「文化」だったり。失墜した神がかつて占めていた「空白」を埋めてくれる「超越性を帯びた価値」(**)。これらの超越的価値に少しでも近づこうとすることそのものを、甘美に称揚するのがロマン主義
 
ニーチェロマン主義(例えば18世紀ドイツロマン主義)を分かつ点は、「超越的価値」とは、実際に自分がそこに辿り着いてしまえば価値を失うようなもの(もしくは最初から失われていた価値であること)に、最初からかなりの程度気づいている点であり、気づいていてもなお、自らの実存(生きる意味)を追い求め、「強い決断」や「激しい苦悩」の中で生き抜くことを称揚するという態度にある。
 
「我々は実存を何か果敢で危険なものとして考えなければならない、殊に、人は実存を良きにつけ悪しきにつけ、結局見失うのであるから、そうしなければならない。」(『若き人々への言葉』角川文庫、原田義人訳、p.24)

 

追い求めた先に何もないことがかなりの程度分かっているがゆえに、ニーチェロマン主義者ではなくニヒリストなのだが、

凡百のニヒリストとニーチェが異なるのは、超越的価値はすでに失われており自分が一生懸命それを探求しよう(真実に近づこう)とかそれをつかみ取ろうと汲々としたところで無為に終わる可能性があるということを分かっていながら、なお、「激烈に」超越的価値に近づこうとし続ける点だ(=これはのちにハイデガー的「決断」とか言われることになる点)。
 

 2.頑張っても何もない(無為に終わる)ことが分かっているのに、なぜ頑張れるのか(何に駆動されているのか)

素朴な疑問。自分の命や生涯をかけて追い求めていっても、その先には何もないかもしれない、もしくは、自分が見ていた価値はすでに失われたものだったということが分かるだけだ、という見通し(人生観)の中で、それでもなお「頑張る」ことができるのはなぜなのか?
 
ニーチェにおいては、次のような論理がある。
何もないかもしれないこと、結果が保証されていないことに向けて全力を尽くすがゆえに、その行動は「美しい」。そう、ここで美学の論理に接続するのであります。
 
たしかに、美とはそういうものですよね、最初から分かっている何かに向けて合目的的合理的に努力するのは「意義がある」し、勤勉でよいし、「尊い」行動だとも言えるが、「美しい」ではない。
 
ニーチェニヒリズムの魔力みたいなものは、保証されていない価値(すでに失われた価値)のために莫大なエネルギーを費やすという、非合理的なふるまいに生の輝きを見るというところにある。この論理は、たしかに現代でも否定できない。
 
→だから、若者は美しいというそういう論理になってくるのだが、この話はまた別の機会に。
  
 
(*)ちなみに、その「あやしげ」なところが魅力なのです、これ力説しとく(心的構造としては、「このバンドは将来絶対売れる」と思って応援し続けるバンギャや、地下アイドルを支持し続けるアイドルファンと同型だと思う、私の場合は一対一の恋愛関係をとっただけであって)。
 
(**)宗教的な神が失墜した後の、超越的価値の空白に入ったものが、18世紀は「自然」、19世紀は「文化」だった。「文化」とは、神から才能を与えられた一握りの天才の個性が生み出すもの=文化、これは同時に「民族」のすばらしさの到達点を示すものでもある)」だから、フランス文化よりドイツ文化がいかに優れているかという点が、戦争と並行して重大な問題になる。20世紀は「個人の人格的個性」が超越的価値を帯びたものになっているのではないかと、私は最近考えているところ。
 

社会構築主義以降の社会記述法 ストラザーン『部分的つながり』に見るハラウェイの可能性について

今年の夏は海外出張もなく(=研究費が取得できていないということ(泣))、自宅時間がけっこうとれたので、読みたかった本をたくさん読めました。とっても幸せであります。夏休み一生続けばいいのに。と願ったところで続くわけでもないので、自分の中の区切りとして、書いときます「2019夏休みの読書まとめ(第1弾)」。
 
1.文化人類学の知見が、社会学理論やジェンダー理論に与える示唆は大きい
文化人類学社会の記述法をずっと考え続けている。社会を記述するとはどういうことか、この記述法はどういう制約と可能性を持っているのか。文化人類学における「社会を記述すること」に関する深い考察と、その制度化(学位論文審査の時に何が要求されるか等)が、社会学理論に与える示唆は大きいので、社会学理論研究者は文化人類学がもたらす理論的知見だけでもきちんとおさえておく必要がある、と私は思っている。
 
 
2.ハラウェイに関する雑談・前置き
先日、こういう提起をある方から受けました。ポスト構造主義ジェンダーフェミニズム理論として、日本ではバトラーばかりが受容され、もう「半身」であるところのダナ・ハラウェイが、いまいち受容されていないのでは?と。たしかにそういうところはないこともないなと私も思う。 
そういえば、2019年初夏の日本女性学会で、文学系のフェミニズム研究者と「ここ10年くらい、男子大学院生がハラウェイを一生懸命読んで、学会でハラウェイが、ハラウェイがって言っている印象がある」と話していたところでした。( ちなみに「男子大学院生が」というところをどう解釈したらいいのかは難しいであり、別に意味を読み込む必要もないかと思っています。そもそも大学院生の男女比として男性の方が多いとかとか色々要因はあるし。)
・大学院生が大事って言っているものって、だいたい本当に大事なことが多いのは事実。院生が他の人に勧めたり、話題にしたり、一緒に読書会をしたりしているものって、狭い領域を越えて広く読まれるべき「古典」になりつつある本であることが多い(領域横断的な学科の院生の場合にはとくに)。「最近は何が新しく古典になっているんだろうか」ということを知りたければ、大学院生コミュニティに顔を出すのが最良であります。ハラウェイ大事なのはほぼ間違いない。
 
私はこれまでフェミニズムSFを検討した時とかに、ちょくちょくハラウェイ読んではいたのですが、なんかピンときてなかった。
が、今回ストラザーンを読んだら、ハラウェイの可能性がちょっと見えてきました。ということで、今回は、ポスト構造主義社会学だと社会構築主義)以降の社会記述法に関するストラザーンから見たハラウェイの可能性を明らかにします。
 
 
3.社会全体を俯瞰する視線への懐疑
構造主義を批判するポスト構造主義が登場し、社会学では社会構築主義が登場して以来、文化人類学でも社会学でも繰り返し、次のことが考察されてきました。
 
●社会全体を俯瞰する超越的(超越論的)視点は、数ある認識枠組み(知的制度)の一つに過ぎず、西洋近代科学が作り出してきた一バージョンである。
 ・たとえば、個々の認識を積み上げることで、その総和として全体に至ることができるというような考え方が、それにあたる。
 
●社会全体を記述できるという視点を取ることへの懐疑。
●では、どのように新たに「社会」を認識し、書くことができるのか?(西洋流のパースペクティブ=遠近法ではない認識のあり方とは?)
 
 簡単にいえば、「社会全体を俯瞰できるかのような視点は西洋主義的であり、それゆえの限界を色々抱えている」ということ。
 
一神教の神様が上から俯瞰するように社会を把握するという知的枠組みをとらないとき、私たちはどのように社会を書くことができるのか、社会についての科学はいかにして可能なのかという問いに対して、大きく次の2つの立場が出てくる。
 
【1】社会の中を生きる個人(アクター、行為者、主体)を丁寧に見ていくべし。個人のなかに社会が集約している。→社会学では、自己論、アイデンティティ論、「心理学化する社会」論…として発展。
 
【2】社会的関係を丁寧に見ていくべし。社会全体がどうなっているかとかは、把握しきれなくても、部分的でもいいから、そこにある「関係」を丁寧に見ることで、社会が分かる。→アクターネットワークセオリー(ANT)とかエスノメソドロジーとか。私がゲオルク・ジンメルの「相互作用としての社会」という考え方が重要だとずっと思ってきたのも、このため。
 
ストラザーンは明瞭に、【1】を退けて【2】を支持するという立場。
具体的には、「部分」を書くべし、というのが彼女の主張。
 
 
4.ストラザーンは「部分的つながり」に何を見出したのか
ストラザーンの主張を一言でまとめると、
 
「部分」を「部分」と捉えるには、それを「全体の中の部分とする論理」(=社会的な論理)があるはず。その論理を書くことが、社会を書くことだ。
 
これすごく画期的だと思う。 なるほどー!目からウロコとはこのこと。
  
「(部分的であることは、〔全体の一部としてではなく、何かとの〕)つながりとしてのみ作用する。」(『部分的つながり』マリリン・ストラザーン[1991]2004=2015:52)
  
「彼女(ハラウェイ)のビジョンは、私が部分化可能性partibilityと呼んでいたものにとても近かった。部分化可能性とは、人格の断片化やそれに伴う他者を通じた再帰的な自己認識のことではなく、全体の半分をペアの片割れにする社会的な論理のことである。」(ibid.53)
 
「概念の成分分析を行うことは、それぞれの単位をひとつの領域の一部にする原理を適用することを意味する。ひとつの親族名称は、親族名称という分類の中の一員というわけである。」(ibid.28)
 
 
以上、ここまで前提となる文脈をおさえてきました。これをふまえ、次からは、ストラザーンはハラウェイの何をどう評価しているのか、について。
  
 
5.<ハラウェイーストラザーン>の社会記述法
ハラウェイと言えば、サイボーグ宣言(1985)。
ハラウェイの言うサイボーグとは、
 
(1)身体でも機械でもない存在。自然/文化や、女/男やといった二元論を乗り越えるもの。
サイボーグーーサイバネティックな有機体――とは、機械と生体の複合体(ハイブリット)であり、社会のリアリティと同時にフィクションを生き抜く生き物である(『猿と女とサイボーグ』ダナ・ハラウェイ 1991=2017:287)

 

(2)ポストジェンダー社会の生き物。
サイボーグは、バイセクシュアリティとも、前エディプス的共生とも、疎外されない労働とも、各部分が有する権力をすべて最終的に簒奪してより高次の一体性を得るような過程を介した有機的全体性への誘惑とも無縁である。ある意味で、サイボーグは、西欧的な意味での起源の物語を持たない(ibid.289)
 
ストラザーンは、このようなハラウェイのサイボーグにおける生体と機械のつながり方を重視。
 
「サイボーグは、比較可能性=等質性(comparatibity)を前提とせずにつながりを作ることができる。」(『部分的つながり』マリリン・ストラザーン[1991]2004=2015:134)
 
「一方が他方の可能性(capability)の実現ないし拡張なのだとしたら、その関係は同等でも包摂でもないだろう。」(ibid.134)
 
サイボーグの身体の中の機械的な部分と生体的な部分は、一方が他方を支配しようとしたり包摂しようとしたりしない。ただ、互いに相手の可能性を引き出そうとし、それによって自分の可能性を拡張しようとするだけだ。
そいういうつながりのあり方として成立する具体的な「もの」(=サイボーグ)のあり方が、二元論を越えていくコツだというのがストラザーンの考えなのだと思う。
ハラウェイは、二元論を越えていく具体的なつながりのあり方を「サイボーグ」という具体的な「もの」として提示し、その「もの」がどのような他の「もの」たちの配置の中で具現化(enbodied)されているのかを書いていくという思考・分析の方向性を指し示している。ストラザーンはハラウェイのこの思想の方向性に元気づけられ鼓舞されているようだ。
 ハラウェイの議論では、客観性とは、超越性ではなく、特定の具体的な身体化=具現化であることが判明する。(ibid.120)

 

 
まとめると、
社会を記述するためには、部分の「つながり」のあり方を書くことが重要。
その部分が、どのようなものの配置のなかで、具現化しているのか、そのありさまを書いていくことで、その部分を部分としている社会が見えてくる。
(*ここでいわれている「もの」は、かつての本質主義実在論への回帰ではない。社会構築主義の「あと」の実在論とでもいうべきものである。)
 
これが、ストラザーンの発見した社会記述の方法なのだということが分かりました。
 
*「ものの配置を書いていくこと」という記述方法については、アネマリー・モル『多としての身体―医療実践における存在論』が実践しており、そこでは具体的対象(動脈硬化)に即した綿密な記述が展開されているので、この方法論の有効性がより具体的に実感できます。
 
 
 
補足注記
ストラザーンのメラネシア研究に関する詳しい話をまとめることは私の力量を越えるので、他の方にお任せします。さまざまなインスピレーションを与えてくれる大変美しい文章です、ということだけ書き添えておきます。
 
それから、最後になりましたが、
私が今回、ストラザーン、モル、ハラウェイを勉強するさいの先生役を務めてくれた論文はこちらです。とても勉強になりました。 
橋爪太作, 2017, 「社会を持たない人々のなかで社会科学をする : マリリン・ストラザーン『部分的つながり』をめぐって」『相関社会科学』26:79-85. ( http://www.kiss.c.u-tokyo.ac.jp/docs/kss/vol26/vol2608.pdf )
ちなみに橋爪論文と本稿とでは主題も関心も異なっており、本稿の読解上のミス等の責任は基本的に高橋にあります。
 

【翻訳】Cotter, et. al., 2011 「ジェンダー革命の終わり?1977年から2008年の性別役割態度について」

 David Cotter, Joan M. Hermsen, Reeve Vanneman, 2011, "The End of the Gender Revolution? Gender Role Attitudes from 1977 to 2008", American Journal of Sociology, Vol.117:259-289.

 本文はここから入手できます http://www.vanneman.umd.edu/papers/cotterhv10.pdf

 

ひとことで言うと、アメリカの性別役割意識は一貫して弱まってきたわけではなく、1994年から2000年の間に、一時、性別役割意識が強まった時期があったよ、ということを指摘した論文。

 

アメリカのジェンダーバックラッシュは1980年代レーガン政権誕生期に起こっているのだけれど、その15年後の90年代中盤に、性別役割が支持されるという第二波フェミニズムの主張に逆行する動きがみられた、という話。

ちなみに、私はこれが「ポストフェミニズム」現象なのではないかと思っている。「I'm not a feminist, but...」と言う女性たちについて論じたポストフェミニズムの論文はこのあたりの時期を対象にしているものが多いので。(コッターは別にこの現象を「ポストフェミニズム」と呼んでいるわけではない。)

 

この論文は、永瀬圭・太郎丸博(2014)や、佐々木(2012)などでも言及されており、けっこう重要。

・永瀬圭, 太郎丸博, 2014, 「性役割意識のコーホート分析 --若者は保守化しているか
?」『ソシオロジ』58(3):19-33.(https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/185141/1/sociology_58%283%29_19.pdf 

・佐々木尚之、2012、「JGSS 累積データ 2000-2010 にみる日本人の性別役割分業意識の趨勢 ―Age-Period-Cohort Analysis の適用」『日本版総合的社会調査共同研究拠点 研究論文集』 12(JGSS Research Series No.9)), pp.69-80 ( http://jgss.daishodai.ac.jp/research/monographs/jgssm12/jgssm12_06.pdf 

 

 

 では、ちょっと丁寧に中身を紹介。

データ:General Social Survey(アメリカ合衆国の居住者で18歳以上の成人が対象)

 わかったこと:

1995年以降、ジェンダー平等志向の停滞(stagnation)や逆転(reversal)が見られる。

ベビーブーマー世代以降、コーホート間の差異は小さくなっており、95年以降、 コーホート置換によるジェンダー平等志向がもたらされなくなっている。

・1995年以降、ほとんどすべてのコーホートの男女、すべてのエスニシティアジア系アメリカ人を除く)、すべての教育レベルと所得レベルの層において、ジェンダー平等志向の停滞が見られた( Cotter et al., 2011:260)。

 

→したがって、すべてのコーホートが影響を受けるような社会文化的構造的な変化があったと考えられる。具体的には…

 

1)「ポピュラーカルチャーにおけるアンチフェミニストバックラッシュ」(ibid, 260)と、
2)1990年代後半の男性の所得(men’s earnings)の上昇による、妻の労働力化圧力の低下

アメリカでは、1960年代以降はじめて1990年代後半に、男性の所得上昇が家族世帯所得の中央値を押し上げており、それゆえ、母親の子育てが再度強調されたと考えることができる。90年代アメリカでは「母性神話(Mommy Myth)」や、“intensive motherhood”(Hays 1996)などが流行語になっていた(ibid, 264)。

 

原理主義エバンジェリカンは、保守的なジェンダーイデオロギーを支持していることが知られているが、GSSデータによれば、これらの宗教的な変化はゆっくりとしたものであり、1990年代の回転(turn around)を説明するものとはなりえない(ibid, 263)。

 

・1970年代から80年代には、人口全体の教育レベルの上昇が平等主義傾向を促していた。しかし、1990年代はゆっくりではあるが教育レベルが上昇し続けているのに対して、平等主義傾向は逆転した。教育レベルとジェンダー平等志向は連動しなくなっている(ibid, 263)

 

 

以下のグラフを見ると、1994年から2000年にかけて、平等志向が右肩上がりにならず、停滞していることが分かる。 

 

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【GSSデータに見るジェンダー態度の変化:1977-2008年(Cotter et al.2011:261より引用)】

*「強く同意と同意、強く非同意と非同意をそれぞれ足しあわせている。「わからない」は、「非平等主義(not egalitarian)にコード化。

 

 

 

【翻訳】Pamela Aronson 2003「フェミニストかそれともポストフェミニストか?フェミニズムとジェンダー関係に対する若い女性の態度」

Pamela Aronson , 2003, “Feminists Or “Postfeminists”?Young Women’s Attitudes toward Feminism and Gender Relations”, Gender & Society 17(6):903-922.(本文はインターネット公開されていないので、お近くの大学図書館で。)
 
高橋によるこの論文の簡単な要約:
1990年代の後半に『タイム』誌に、「フェミニズムは死んだのか?」という記事が掲載された。ここで言われている「フェミニズムの死」とは、若い女性は女性運動によるゲイン(gain)をありがたがっておらず、差別について無関心で、フェミニズムを支持しないという、一般に広がっている推定(presumption)のことを言う(p.903)。
 
では、本当に、若い女性はフェミニズムから離れてるのか?それを確かめるために、調査を行った(p.904)。
 
*p.904-908まではこれに関する先行調査・先行研究がまとめられており、勉強になります。
 
アロンソンの問いは、若い女性は、彼女たちの機会(opportunity)や障害(obstacle)についてどう考えているのか。彼女たちは女性差別を どのように知覚し経験しているのか。フェミニズムに対してどのような態度をとっているのか。フェミニズムに対する態度は、人種や階級や、異なる人生経験(アロンソンのこの研究では、大学進学したかどうか、親になったかどうか、仕事を続けているかどうかの3つを指標としている)によって異なるのか。
 
調査方法は、デプスインタビュー。
調査対象者は、アメリミネソタ州セントポールカトリック系の女子校)に通う9年生(1973年生まれ)から無作為抽出された1000人(彼女たちに対して、1988年に質問紙調査が行われている)のなかで、引き続き調査に協力をしてくれた女性たち40名。調査期間は1996-97年で、調査時彼女たちは23-24歳だった。
 

これまでの「若い女性のフェミニズムに対する態度」調査の多くが、白人中流階級女性を対象にしがちだった点を反省し、アロンソンは、インタビュイーの33%を有色人種にしている。インタビュイーの構成を出身階級別にみると、31%労働者階級、48%のミドル階級、21%アッパーミドル階級となっている。

 
調査の結果、

f:id:ytakahashi0505:20190816194413p:plain

(上の図表の初出は、高橋幸の2019年の日本女性学会大会報告用PWP


という分布になっていることが分かった。

 
「2、フェミニストだが、しかし(I'm a feminist, but...)」タイプ、
「4、フェミニストではないが、しかし(I'm not a feminist, but...)」タイプどちらとも決めていないとする「3、フェンス・シッター(fence sitter)」(31%、)タイプが、フェミニズムに対してアンビバレントな態度を示す人」ということになるが、これを合わせると全体の59.5%(25名)となる(Aronson 2003:913-917)。
 
こんなわけで、1990年代にはフェミニズムの死とか、フェミニズムは終わったとか言われてきたが、実際の若い女性のフェミニズムに対する態度を見ると、フェミニストとは名乗らないが、フェミニズムに反対するわけでもないという「あいまいな態度」を取る人が大部を占めているということがわかったよ。
 
という論文です。
女の子たちがどういうことをインタビュー内で語ったのかについての具体的な発言も色々書いてあるので、ご関心の向きはぜひ本文をおよみくださいませ。
 

【翻訳】Yang, G., 2016, 「ハッシュタグ・アクティビズムにおける語りの主体:#BlackLivesMatterのケース」

Yang, G. (2016). Narrative Agency in Hashtag Activism: The Case of #BlackLivesMatter. Media and Communication, 4 (4), 13-17.

 ( https://repository.upenn.edu/cgi/viewcontent.cgi?article=1500&context=asc_papers

 

 アブストラク

ハッシュタグ・アクティビズムは、社会的・政治的主張とともに、共通のハッシュタグ化されたワードやフレーズやセンテンスがソーシャルメディア上に大量にポスティングされたときに起こる。ネットワーク空間における、これらの相互的に関連するポスティングの一時的な展開(unfolding)は、語りの形式(narrative form)と主体を、彼らに(=主体に)与える。Karlyn Cambellによる#BlackLIvesMatterのケースに対する「修辞的主体(rhetorical agency)」の議論を適用し、本論文はハッシュタグ・アクティビズムのナラティブ・エージェンシーが、語りの内容や社会的文脈だけでなく、語りの形式(ナラティブフォーム)によっても駆動されているということを示す。語りの主体は、共同的で(communal)、発明的で、スキルフルで、変幻自在(protean)だ。

 

 

高橋によるこの論文の紹介:

・この論文のみどころは、デジタル・アクティビズムの「主体」を問題にするところにある。

・これまでのデジタルアクティビズム研究は、ネットワーク化されたつながりという特徴に焦点を当てた(Bennett & Segerberg, 2013)、組織とリーダーシップという問題に関する議論が多かった(ゲルバウド2012)。フラットな組織が特徴的だ、とか。

だが、そのネットワークでなされるナラティブの形式によって立ち上がる「主体」については、無視されてきた(neglected)ので、そこを考察するよっていうのが本論文。