ポストフェミニズムに関するブログ

ポストフェミニズムに関する基礎文献を紹介するブログ。時々(とくに大学の授業期間中は)ポスフェミに関する話題を書き綴ったり、高橋幸の研究ノート=備忘録になったりもします。『フェミニズムはもういらない、と彼女は言うけれど :ポストフェミニズムと「女らしさ」のゆくえ』(晃洋書房、2020)、発売中。

【研究計画】石巻圏域居住者へのワークライフバランスに関するインタビュー調査

公益財団法人石巻地域高等教育事業団からの助成金であるIK研究の助成に採択されました。以下の研究を今年度、実施する予定です。該当する方で研究に協力してくださる方を大募集中です。インフォーマントの紹介もどうぞよろしくお願い申し上げます。

 

研究テーマ:石巻圏域居住者へのワークライフバランスに関するインタビュー調査
        
研究目的
 石巻圏域定住自立圏で子育てしながら家族生活を行っている人々へのインタビュー調査を通して、「家族生活と仕事」に関する人々の希望と現状の落差を明らかにし、石巻圏域の実情に即したワークライフバランス実現のための政策提言を目指す。
 石巻市東松島市、女川町は石巻圏域定住自立圏形成協定を結び、人々の生活保障と人口の安定化を目指してきた。しかし、同圏域の人口流出はいまだ止まず、中心市である石巻市合計特殊出生率は低位にとどまり(全国1.38、石巻市1.37)、第一子出産年齢は全国平均と同程度に遅れ、第二子以降の出生数も伸び悩んでいる。
 近年の日本では、親(自身の親・配偶者の親を含む)が近くに住んでいる人ほど有子・多子率が高い傾向が確認できる。石巻圏域は、三世代同居率や親の近居率が比較的高いが、その強みを生かし切れていない。その原因の一つに、親世代と子育て世代間での性別役割に関する規範意識の違いやアンコンシャスバイアスがあると考えられる。そこで、本研究では「満足度の高い家族生活」の実現を阻害している要因を、おもに性別役割規範との関連で分析しながら、家庭および職場のアンコンシャスバイアスの解消に向けた提言を目指す。
              
研究計画
 調査対象者:石巻圏域に居住し家族で生活した経験を持つ20代から50代の女性、数名(応募状況に応じてサンプル数を確定する予定)。とくに、三世代同居や親近居で子育てを行っている女性を主な調査対象としつつ、未婚女性や新たに石巻圏域に移住して子育てしている家族も調査対象とすることで比較検討を行う。
 また、調査に協力して下さった女性のパートナー(今回は「男性」を想定)や、本研究に関心を持つ男性(20代から50代)、外国人家族の女性とそのパートナーにも一定数を割り当ててインタビューサンプルとすることで、石巻圏域での「家族生活と仕事」に関する多様な意見を把握できるよう努める(※)。
 ※共同研究者の西川はインドネシア研究を専門としており、近年石巻地域への移住が増えているインドネシア人家族への母語でのインタビューが可能である。また中国文学を専門とする輪田は、中国語圏出身者へのインタビューが可能である。外国人家族をも想定した移住者包摂的な子育てサポート政策は、多文化共生の観点から見ても重要課題であり、本研究課題は共同研究の形を取るのが最も適切である。数年間の継続的な共同研究を想定しており、本調査はその一年目に当たる。
 調査項目:①家庭生活において女性が日頃感じている問題(人間関係上の問題も含む)、②女性自身が職場で経験した問題、③配偶者の仕事に対する女性の考えや希望の3つの論点を中心にうかがいながら、生活時間調査を行う。調査方法は半構造化インタビュー法。一人当たり1~2時間×2回を基本とし、状況に応じて対応する。

5月5日はお誕生日なので......

今日、無事40歳を迎えることができました。これまで支えてくださったみなさん、どうもありがとうございました。これからもどうぞよろしくお願いします。

大学生の頃と比べて文化作品との接し方が変わったなぁということを、ここ最近、けっこう繰り返し、いろんな場面で感じています。

10代後半から20代の頃は、「読みたい観たい作品がありすぎるし、踏まえておきたい文化的知識もたくさんありすぎるのに、全然時間が足りない!」という感覚が強かった。そういう焦燥感が強くて、お高いオペラやお能を観たりするときも「優雅な文化的鑑賞」っていう気分とはほど遠く、神経を尖らせて必死に手当たり次第、いろんなものを吸収してたなという感じがします。大きな美術館にも小さなギャラリーにも舞台にもライブにもクラブにも……節操なしにいっぱい行ったなぁ。

「自分はこの世界においてどう生きればいいのか」とか、「何が本当に価値あるものだと自分が思えるのか」ということを、なるべく早く見極めなきゃという思いに駆り立てられていたから、あんなに必死だったのだろうと思います。

「私はこの世界で何をしたいのか」や「この世界に何を期待してよいのか、この世界をどう理解して、どういう態度で生きていけばいいのか」みたいなことを教えてくれるのは、種々の文化作品たちであり、学校の勉強(*)も、家族も、私にそれを教ええないし、世間で言われている出世みたいな評価軸は全然あてにならんと思っていたのでした。それだけは、早い段階から確信していて、今に至るまであまり変わらなかった。おそらく、文化がないと生きていけないタイプの人間というのは、こういうかんじなんだろなと思ったりしました。あくまでもこれは私個人のケースだけど、文化作品だけが、私がどう生きるべきかを教えてくれて、人生の指針や生き続けるためのエネルギーをくれるという感じがしてる。

(*)大学の人文社会科学系はのぞく、と一応書いておく。

ちなみに、「なるべく早く」自分の価値観を確立せねばと思っていたにもかかわらず、その見極めみたいなものができるようになってきたなーと感じられるようになったのは、なんと30代後半、35歳くらいからなのですが。長かった。でも、これだけいい作品が大量にあってかつそれらにアクセス可能な社会だと、普通にそうなるよね…...。 

長い間迷走してたし、今もある意味で迷走中ではあるけど、20代の頃と違うなーと感じるのは、「軸足はもうあまりブレえないだろうな」という感覚が今はあること。より正確に言うと、今からさらに軸足の位置を変え、ゼロから自分の頭で考えて思想を構築していく時間は残ってなさそうという感覚(?←今は疲れ果てていてその気力がないというだけの可能性はあるかも)がある。

だから、べつに自分の思想が盤石で、素晴らしく完成されたものだと思っているわけではない。けど、自分がいちおう納得できる程度までは考え抜いた感はある。

まとめると、10代~20代にかけては、自分の人生観や世界観を作るために「文化」を必死に吸収してた。なぜなら映画とか小説とか音楽とかアニメとかだけが、自分のそれを確立する糧でありそれ以外あまりないと思っていたから。

それ対して、今はその「必死さ」みたいなものが薄くなってきた。

それは、私が「文化」領域の片隅に生息し、そこで生活の糧(おカネとやりがいの感覚)をもらいながら、その「部分」に徹する生活をしているからなのだと思う。それはそれで良し悪しがあるけど、まあオトナになるってそういうもんだなーと思っていたわけ、この2年くらい。

でね、そんなこんなだったんだけど、昨日たまたま映画『花束みたいな恋をした』(2021)を観て、思い出したんだよね。

自分が好きなものを相手も好きだということを知っただけで、相手と深くつながれたような気持ちになるというあの不思議現象を作り出せるようもの(作品、本)を世に送り出せる人に、私は、なりたかったんだよなーということに。

 

うーんと、これはちょっと説明させてください。

自分が本当に心から「これはすごい、やばい」と思った作品とかアーティストとかの名前を言うのって、ちょっとした秘密を打ち明けるみたいな気持ちになるじゃないですか。

通常だいたいは、その場に合わせて最近これいいよねーとか、流行ってるよねーとかいうような文化的会話をするわけですが、時々自分と同じものが好きなタイプの人かもという感触を持った時に、小出しで自分が好きなものを開示していく。で、それを「実は自分もあの著者さんのこと好きで」と言ってもらえたり、その好きポイントが似ていたり、相手の見方が面白いと自分が心から思えたりすると、なぜかすごく深くつながれた気がするという、あの不思議現象(**)。相手のことをまだよく知らなくてもこの人は信頼できる!みたいな、強烈な信頼感。

そういう局所的だけど深いつながりを発生させるような本を書いて、世に送り出すオトナに私はなりたいんだった、そういえば。ということを思い出したんだよね。

(**)これは18世紀ルソーの時代(出版技術の確立後の小説文化の普及期)から継続的に確認できている近代の不思議現象。

現実的なことを考えれば、「えーっと、社会学者でそれはムリじゃね?」っていう声が、いまほうぼうから聞こえてきた気はしたんだけど、私はそう思ったんだよなーということを、せっかくのお誕生日の機会なので、書き綴っておこうと思いました。

以上!

そうそう、私は18年間宮城で育って、22年間東京で生活し、今年から再び宮城に戻ることになりました。今後とも、皆さま、どうぞよろしくお願い致します。

 

大塚明子『『主婦の友』にみる日本型恋愛結婚イデオロギー』(2018、勁草書房)まとめ

個人的に面白かった点や「発見!」だった点を中心に(というか、ほぼそこだけを)まとめます。

大塚さんが分析対象にしている主婦の友というのは、戦前から発行し続けている女性三大誌の一つで、最も庶民性(ポピュラリティ)が強く*、最も売れていた雑誌です。

だからこそ、日本における通俗的な**恋愛結婚理解(=イデオロギー)が見えてくるというところがあり、そこが『主婦の友』を分析することの面白さだな!と思いました。実際大塚さんの分析、面白かったです。

*「庶民性が強い」といっても、明治から昭和初期にかけて読んでいたのは女学校を出た都市部の中産階級および、そのような中産階級の生活にあこがれを持つ労働者階級の女性たちであり、人口比にしたら必ずしも「マジョリティ」とは言えないというのは、この分野の歴史社会学の前提的知識に属する事柄です。読者規模とかも、大塚さんの本に詳しく書いてあるので関心のある方は読んでください。

**「通俗的な」とは悪い意味ではなくvernacularの日本語訳の意味で用いています。

面白かった点・発見その1

「恋愛」と「愛」は違うという、女性たちの生活実感に根ざした「愛」の考え方が『主婦の友』に見られる言説パターンだということが分かって良かったです。「恋愛と愛は違う」という考え方は今でもよく見られるものの一つですが、誰かが理論化した議論ではない俗説なので、何を引用すればいいのか悩んでいたところでした。

戦前期の『主婦の友』は、性的色彩の強い「恋愛」を非理性的で不安定なものと警戒し、精神的で永続的な「愛」と対極化する傾向が強かった。しかし、この時期、GHQが主導したアメリカ式恋愛文化の普及と連動するように、(『主婦の友』もまた)官能的情熱としての「恋愛」を理念上は肯定する方向に転換する。(p.356)

この引用が含まれている本書第10章からは、さらに、ハリウッド映画のキスシーンをカットせずに公開することなどがGHQ民間情報教育局の要求としてあったという歴史的事実なども分かり、勉強になりました。

また、1920年代後半の『主婦の友』は、北村透谷や厨川白村的な恋愛至上主義異を唱えていたということも知れてよかったです。なるほどー。

……明治20年代にはプロテスタントの知識人らが、近世的な「色」の美学と対比して精神主義的な「恋愛」を掲げた。だが、20世紀に入ると性欲が本能として肯定され、自然主義の隆盛に至る。これに対し、明治末期~大正期には「人格」の理念を中核とした広義の教養主義に基づき、再び「恋愛」が称揚されていく。その典型が、厨川白村1921年(大正10年)の新聞連載「近代の恋愛観」で示した恋愛至上主義であった。

 これに対し、ほぼ同時期に創刊された『主婦の友』では恋愛の理念的な位置が相対的に低く、白村と袂を分かつ。1922~29年(大正11~昭和4年)の誌面には「恋愛至上主義」の語を含む記事が9本あるが、全て多少なりとも否定的な評価を下している。そして家族制度に対する評価と平行するように、1920年代後半からは全面否定となる。(p.140-141)

なんか、現代社会においては「女性はロマンティックな恋愛が好き」というステレオタイプがあるような気がするのですが(日本の場合、それは1970年代の少女マンガというジャンルの確立以降の現象だとは思われます)、女性誌に出てくる言説って「女性的現実主義」とでも名付けたくなるような、独特な、生活実感に根ざした現実主義(もう少し言うと、男性優位的な現実社会のなかでの「弱者」の現実主義のようなもの)があって、そこが女性誌を分析することの面白さだと私は思っています。

大正期のなかでもエリート女性層を読者としていた『婦人公論』はここで大塚さんが明らかにしているよりももう少し恋愛肯定ですが、より庶民性の高かった『主婦の友』(ちなみに多くの未婚女性も読者層に含まれていました)は恋愛至上主義に対して否定だったというのは、「女性的現実主義」のあらわれという感じがしており、重要な論点だと思いました。

 

面白かった点・発見その2

大塚明子さんのこの本は、西欧型ロマンティックラブイデオロギー(恋愛結婚イデオロギー)と日本型との違いを明らかにしようとするものです。では、何が違うということが明らかになった(そして実際に雑誌分析によって実証された)と言えるのでしょうか。

とても分厚い本で、色々な論点が含まれているので、まとめ方は読者によって異なってくるかとは思うのですが、私は次の2点が面白かったので、そこを中心にしてまとめてみようかなと思っています。

第一に、理想的な男らしさと恋愛の関係に関する西欧と日本の違い。

第二に、個人の唯一無二性や人格的コミュニケーションを中核とする西欧型ロマンティックラブと、無常やあわれとして性愛を捉える日本的「恋愛(ロマンティックラブ)」観。

 

第一に、理想的な男らしさと恋愛(ロマンティックラブ)の関係が欧米文化圏と日本文化圏では異なるという話が「たしかにー」と思いました。すなわち、欧米では「愛する貴婦人につかえる騎士」という文化的モデルが、恋愛する男性像の理想的モデルとしてある。それは、「愛する主体」としての男性であり、繊細さと文化的感受性の高さ、愛を貫く誠実さ(ロイヤリティ)を持ち合わせており、身分の高い高貴な女性や美しい女性への「愛」を通した自らの高貴化......というような特徴を持ちます(すごいざっくりな高橋によるまとめです)。

それに対して、女性蔑視が強い儒教的&仏教的文化圏である日本においては、女性に愛を表明する「男らしい理想的なモデル」がない。そのため、

男らしい男による女性への愛情表現の文化モデルを欠いた日本映画では、「わざと乱暴な言い方をする」方法が(愛情表現の仕方の)工夫の一つだった。(p.323) 

妻を呼ぶときに「my dear」ではなく「おい!」とか「こら!」と呼ぶ日本的風習ですね。あと、「細君に対してわざと邪慳にふるまって見せる夫」とか「心の中の愛情を動作に見せることを恥とするくせ」とか。あー、たしかに古いタイプのおじいちゃんとかに今でも見られるやつ。

もう一つ、大塚さんによると、日本映画に見られる、男性の女性に対する愛情表現の仕方として「非常時の無意識」というものもあるとのこと。

「1943年の「熱風」では、藤田進演じる主人公が、命がけの作業が終了するや否や、憑かれたように、いつも彼を優しく見守ってくれていた女性の元に駆けつける。周囲があっけにとられていると、かれはふと我に返り「気がついたらなぜかここへ来ていた!」という(佐藤1996:53)」(p.324)

なんかちょっと笑えるのは私だけでしょうか。たぶん、ここは絶対に笑ってはいけない所だとは思うのですが。

で、ジェンダー論的に重要なのは、こういう男性が愛情表現において「不器用である」ということが前提とされ(許容される)ような文化圏の中で、どういう性別役割が成り立っていたのかですよね。それはですね、ざっくり言うと、

結婚したら男は仕事優先。男性はパートナーに対する愛情表現はしないので、関係調整の労力は妻が払う、です。「不器用な夫に満足し、妻の方が機嫌を取ることで関係性を保つ」のが『主婦の友』から読み取れる夫婦関係とのこと。

 

2の補足

そもそも、この背景には、儒教における「愛」は基本的には、上の者が下の者に対して示すものであり、下の者は上のものを「敬う」というような、上下関係を基本にした情緒的関係のパターンおよび語彙の蓄積はあるが、対等で平等な関係を保つための情緒的信頼関係を言い表す言葉が日本語には少ないということが、あるのかもしれません。

 

面白かった点・発見3

第二に、個人的に何よりも面白かったのは、性の情熱を伴った恋愛(「性愛傾斜型の恋愛結婚イデオロギー」と大塚さんは呼んでいる)が『主婦の友』でも称揚され始めた高度経済成長期の日本で、性的情熱を伴った恋愛感情が不可避的に衰退していく「無常」や「あわれ」として捉えられ論じられるという傾向が見出せるということです。

亀井勝一郎の『愛の無常について』は、なぜか私も高校生の時に図書館かどこかで読んで感銘を受け、お小遣いで文庫版を買った記憶があるのですが(でも、何に感銘を受けたのかは全く覚えていない)、そこでは、大塚さんの引用からさらに引用すると、

「無常なものだと知ってて、しかも浮気ごころは決して止まない。人間の「あわれ」とはこのことであろう。・・・浮気ごころも、姦通も、離婚も、年月を経てかえりみるなら、すべてこれ夢だということになりはしないだろうか」(p.506)

というようなことが書いてあるらしい。

戦後期の誌面では、同じ明治末生まれの林芙美子石坂洋次郎が、当時話題になりつつあった妻の恋愛に関してほぼ同じ見解を述べている。林の言葉を借りれば「夫と別れて恋人と一緒になったところで、果たして幸福がくるかどうか——同じことですよ」というわけだ。

 このように各時代の『主婦の友』を代表する知識人たちは、恋愛をもっぱら性的・官能的な情熱としてのみ捉え、いつか必ず消滅すると想定する。繰り返しになるが、彼らの発想には、ロマンティックラブの中核にある「ただ一人の人」という個別志向性が欠落しているのだ。(p.506)

という指摘はとても重要だし、的を得ていると思いました。欧米型ロマンティックラブイデオロギーは、恋愛対象の唯一無二性、個別性を中核的なものとし、その相手に対する人格の開示というコミュニケーションを重視するのに対して、日本型恋愛においては、唯一無二の人格を愛するというロマンティックラブの発想が弱く性的情熱および恋愛的情熱は「いつかは消えるもの」というはかなさが「もののあわれ」として、ある独特の文化的価値を帯びて、表象され語られ享受されているというのは、けっこう重要なものであるように思います。

まとめ+今後ちゃんと考えたいこと——日本語の「愛」について

大塚さんの議論の主要論点の一つは、お見合い結婚という独特な「近代的な恋愛結婚」の形態が定着した日本の恋愛結婚イデオロギーの特徴などであるので、本来ならそのあたりをまとめる必要があるとは思うのですが、割愛してしまいました。すいません。どなたか、ぜひまとめて下さい。

以上のように、大塚さんの博論を読みつつ、私が関心のある3点をまとめてみましたら、今後私がやるべきこととして、日本文化圏における「愛」の歴史的背景(儒教、仏教的背景)ということをある程度考える必要があるのでは…ということが見えてきました。大きすぎる課題なので今まで回避していたのですが。

大塚さんのまとめによると、日本語の愛にはおもに3つの系譜に基づく3つの意味があるそうな。

一つは儒教的な「性愛以外の人と人との感情、そして身分的には上から下へのかわいがるような感情、また物に対する愛玩の気持ち」。

もう一つは、仏教的な用法で、人間の性愛を指し、「執着、迷いとして否定される意味が強かった」。

最後に、明治に入って1880年に完成した日本語訳聖書において「神のアガペー」の訳語として「愛」が用いられた。(p.62)

こういう意味の地層は現代社会でも時々顔をのぞかせることがあるので、儒教的、仏教的に人間間の愛や礼、敬などの「社会的関係!」がどう考えられてきたのかを今後さらに、ぼちぼち勉強していこうと思っております。

東浩紀の『観光客の哲学』をどう批判的に継承していけるかまとめ1

1.

『ゲンロン0 観光客の哲学』を楽しく拝読したので、内容まとめと感想をまとめておいて、今後なにかの時に使おうと思います。

東がここで提起している議論は、自分勝手な個人の楽しみを主要な目的としてなされる観光(消費+ふらふら歩き)によって発生する「誤配」(意図されていなかった人に、意図されていなかったメッセージが届くこと)が重要なのでは、ということです。

公的な理念やら社会的問題関心などをモチベーションにする連帯だけでなく、ただひたすらに個人的な快楽や楽しみをモチベーションにしてなされる観光もまた(マルチチュードに似ているがそれとは少し異なる)新たなつながり(「つなぎかえ」(「第4章 郵便的マルチチュードへ」))をもたらすものであり、このような誤配によって、既存社会を変えていく批判や攪乱が可能になるのではないかということを提案しています。

なるほどなー!と思いました。

とにかく東は、「まじめな」議論をする人たちが無意識のうちに下位化している欲望・快楽・消費に駆動された社会的現象(オタク消費とか)を、「思想的に真剣に考えるに値するものなのだ」と指摘し、実際にその思想的面白さを提示して見せるのがうまくて、すばらしいです。見習いたいと思います。

(わたしも「「モテ」とかの社会現象をまじめに考えるの、ぜったい面白い」と思って分析に取り組んでいるのですが、その面白さを思想的文脈に載せて提示するというところまではまだできていないので……。)

・上記の説明に該当する部分を引用しておきます。Kindleで読んでいるので、ページ数は分からず。

二一世紀の新たな抵抗は、帝国と国民国家の隙間から生まれる。それは、帝国を外部から批判するのでもなく、また内部から脱構築するのでもなく、いわば誤配を演じなおすことを企てる。出会うはずのないひとに出会い、行くはずのないところに行き、考えるはずのないことを考え、帝国の体制にふたたび偶然を導き入れ、集中した枝をもういちどつなぎかえ、優先的選択を誤配へと差し戻すことを企てる。(第4章から引用)
ぼくが本書で提案する観光客、あるいは郵便的マルチチュードは、スモールワールドをスモールワールドたらしめた「つなぎかえ」あるいは誤配の操作を、スケールフリーの秩序に回収される手前で保持し続ける、抵抗の記憶の実践者になる。(第4章引用)

ここでの東の議論(着想)を、高橋なりに言い換えると、以下のような感じになります。

観光に行く人は、現地の人が用意した案内図や紹介文にしたがって、上品にルールを守りながら観光名所をめぐります。そして、そこで偶然出会った地元の人や他の観光客の雰囲気、諸々の出来事やハプニングなどに基づいて、めいめいが勝手な印象を持ち帰ります。観光に行く人は、ある程度その土地を知ろうと思っていますが、「本気で」知ろうと思っているわけではない、くらいのゆるい感じです。地元の人のリアルな意見に直面して嫌な思いをする心の準備はしていないので。

こんなかんじでグダッとできあがる、ぜんぜん正しさとかを備えていない、個人的で偶然的なその土地へのイメージやそこでの偶然的な経験が、「つなぎかえ(誤配)」をもたらすことがある、というのが東の着想だと読めます。

ぶっちゃけて言ってしまえば、行く場所はどこでもいいし、誰でもいい。とにかく、誰かが、自分の日常とは切れたどこかへ行って、その土地で偶然的に色々なことを経験して帰ってくる。そういう流動性(モビリティ)のなかで、「つなぎかえ」(誤配)が起こり、それが既存社会への抵抗や批判、攪乱を生み出すことがあるのでは(全ての観光行為がそうではないが、ときどきまれにそういう攪乱を生み出すきっかけになるし、それはけっこう重要なのでは)、という議論であると、わたくしは理解しました。これ、面白い発想ですよね。

一言でまとめると、「モビリティがもたらすつなぎかえ」というのが、高橋の東読解となります。

ちょっと卑近な例すぎかもですが、たしかに移動して、日常からの切り離されると、いつもとは異なることを考えるのでそれだけで新しい発見があったり、思いもよらない着想が得られたりしますし。そして、見知らぬ土地で見知らぬ人やモノに出会って、自分のこれまでの考え方がちょっとだけ組み変わる…みたいなこともありますね。(これが、今まで自分が知らなかった興味深いYoutuberを発見するのと、どう機能的に同じで違うのか、土地への移動はオンラインでは得られないどういう効果があるのかを、もうちょっと厳密に個人的に色々考えていきたいところです。)

・こうまとめてみたら(あえて東は使っていない「攪乱」という語を使ってまとめてしまったのだけれど)、けっこう骨格としてはバトラーっぽい議論でもあるなと思いました。(デリダの「誤配」経由でバトラーの「攪乱」につながっているのだと思われます)

 

2.

さて、あとは、追加的な話ですが、

基本的に東は「観光客の哲学」として、「行く」側の人の立場から議論を展開しているのですが、「観光」の哲学を考える場合、観光客を受け入れる側にとって、観光は何を意味するのかという議論も重要な気がします。むしろ日常的に毎日「観光」をやっている観光業者にとって「観光」とは何なのか?という話ですね。

・例えば、過疎化が進む地域で観光が重要な産業になるというような形で、観光が広がるにつれて、観光客という外部の人(他者)の視線を通して、その土地の新たなアイデンティティが立ち上げられていくと予想されます。記憶の共同化やオーソライズを通した地域のアイデンティティの確立のプロセスを具体的に分析をしたらかなり面白そうだなと思いました。

・また、地元地域の側としては、基本的には、なんかよくわからない理念とかを掲げてくる「他者」と付き合うのはめんどくさいが、経済的利益をもたらす「観光客」ならつきあってやってもいい、「おもてなし」をしてやってもいいっていう感じだと思うのですよね(これ別にインタビューとかしてないので予想で言っていますが)。

で、そのようにまずは経済的利益から始まった関係でも、いまの観光地でなされているおもてなしは、やっぱりそれ以上の何か、すなわち感情の部分が乗っかって成り立っているという感じがします。仕事として客を歓待しているけど、純粋に「楽しんでもらいたい、気持ち良く過ごしてもらいたい、いい思い出を作ってほしい」という気持ちもあって、それは地元愛とか地元を誇りに思う気持ちとか、職業愛ともまじりあって成り立っている。(「おもてなし」がオリンピック誘致の時に用いられたキーワードだったので、オリンピックに批判的な人は「おもてなし」をも批判する傾向があるけど、中立的に考えると、そういった気持ちが乗っかったものが「おもてなし」と言われているものなのだと思う。)

観光客を受け入れるおもてなし(ケア)の形で築かれる、ゆるやかな他者(よそ者)への信頼感は、着目に値するものなのではと思いました。(これはケアの思想に連なる何かかも。)まとめると、「観光地で日々の営みとして繰り返されている観光的おもてなしは、いかなる社会的関係を生み出しているのか」という問いは、色々と深く考えていくことのできる良い問いだなーと思っています。

 

3.

ちなみに、東は観光によるつなぎかえ(誤配)によって、どのようなつながりが形成されるのか?という問いに対して、「家族」と答えています。ここで言われている家族とは、高橋が勝手に名づけるなら「偶然的家族」とでもいうのが良いような、新たな家族関係への光の当て方に基づいたときに見えてくる「家族」です。

これがなかなか曲者というか、ジェンダー論研究者としては無視して通れないテーマなのですよね。ということについては、次のエントリーで。

【博論要約】ポストフェミニズムから見る第二波フェミニズムの理論的限界 —20世紀末から21世紀初頭の日米におけるジェンダー革命および性革命の質的変容—

ポストフェミニズムから見る第二波フェミニズムの理論的限界

—20世紀末から21世紀初頭の日米におけるジェンダー革命および性革命の質的変容—

 

目次

序章 

第一部 ポストフェミニズム

 第1章 ポストフェミニズム論とは何か——先行研究の整理

 第2章 #WomenAgainstFeminismに見るポストフェミニストの主張

第二部 第二波フェミニズム(1)ジェンダー革命

 第3章 マルクス主義フェミニズムと性別分業

 第4章 性別分業をめぐる変化 

第三部 第二波フェミニズム(2)性革命

 第5章 ラディカルフェミニズムと性行動

 第6章 性行動をめぐる変化 

第四部 ポストフェミニズムの「女らしさ」を分析するための新しい理論枠組みの提示

 第7章 社会構築主義アプローチの批判的検討——新しい方法論の提示——

 第8章 ジェンダー論の新しい理論枠組み

終章 

 

 

EXECUTIVE SUMMARY

1 論文の主題と、主題に関する既存の学術的背景、論文の目的

 本論文は英米と日本のポストフェミニズムについて論じる。

 これまでのポストフェミニズムに関する研究はおもに、メディア論を中心になされてきた。ポストフェミニズムに関する社会学的な研究の不足やメディア論的研究の先行のなかで、社会学ではいまだ、ポストフェミニズムとは「気まぐれに移り変わる女性文化」における一時的な「流行」にすぎないという認識が広がっている。

 だが、ポストフェミニズム期のジェンダーおよびセクシュアリティに関わる社会学的データを分析すると、ポストフェミニズムの「流行」の根底で、ジェンダー革命及び性革命の動向変化がマクロレベルで起こっていたことが分かる。本論文では、日米のポストフェミニズム期に性別役割分業意識の上昇や、性行動の消極化が見られることを実証する(論点1)。

 その上で、この時期に見られるようになった「個人主義的な家族主義」や「性行動の消極化と多様化(リベラルな消極化)」という動向は、保守的な主張と第二波フェミニズム的な主張を独特な形で組み合わせることで成り立っているものであり、そのために「保守的/解放的」の二元論を主要な分析軸とする第二波フェミニズムの理論枠組みではうまく把捉できないことを論証する(論点2)。

 本論文の最終的な目的は、1980年代のアメリカで確立した第二波フェミニズムの理論枠組みが、どこでどう行き詰まっているのかを具体的に明らかにし、個人化する社会で進むポストフェミニズム状況を適切に分析するための理論枠組みを提示することである(論点3)。

 

2 分析方法と分析対象

 本論文では、社会学の三つの方法を組み合わせて研究を進めていく。

 ポストフェミニズムは現代の新しい社会現象であるため、データが限られている。限られたデータを読み解いて社会学的に整合的な一つの、現代社会についての説明を提示するためには、複数の方法論を組み合わせる必要がある。

 第一部では、質的分析法を用いる。先行研究に基づいて「典型的なポストフェミスト的言説パターン」と言える一定の言説群を分析対象とし、それらをコード化して分析することで、ポストフェミニスト的言説パターンの具体的特徴を明らかにした。

 第二、三部の第4、6章では量的統計データの批判的検討という方法を用いる。ジェンダーセクシュアリティに関わる行動・態度・意識についての公的・準公的なデータを横断的に分析することで、ポストフェミニズム期に見られる特徴的な動向の変化を明らかにした。

 第二、三部の第3、5章および第四部の第7章では理論研究という方法を用いる。とくに、ジェンダーセクシュアリティ論における古典的文献を批判的に精読することで、現代社会分析に有効な分析視点を提示する。第二波フェミニズム理論の古典を精読して議論を再構成した後、社会構築主義的アプローチの批判的検討を行っているJ.バトラーをめぐる議論を批判的に検討することで、「身体(セックス)/ジェンダー」の二元論ではなく、性別および性別らしさの「可塑性/非可塑性」を主要な分析軸とする新たな方法論を提起した。この方法論の確立によって、ポストフェミニズムの社会現象を説明する理論枠組み(モデル)が導出された。

 

3 論文の論理的構成——各部で何を論証しそれによってどのような結論が得られたのか

論点1 ジェンダー革命及び性革命の動向の変化を論証し、ポストフェミニズム期を特定

 これまでの先行研究および筆者の一次資料調査から、ポストフェミニスト的と呼ばれる言説群の特徴として、女らしさ肯定的態度が確認できる(第一部)。

 実際、ポストフェミニスト的言説が登場した時期には、性別役割分業を支持する意識がマクロレベルで上昇している。アメリカでは1990年代中盤からの10年間に、性別分業意識の低下の停滞が起こっている。このことをGSS(general social survey)やNES(national election survey)、WVS(world value survey)データから論証した。日本でも2000年代後半からの10年間に、性別分業意識の低下の停滞が起こっている。このことをJGSS(日本版総合的社会調査)やNFRJ(全国家族調査)、出生動向基本調査、家庭動向調査データから論証した(第二部)。

 同時期には性行動の動向の変化も見られる。アメリカで性行動が消極化していることが、センサスやGSS、ピュー・リサーチセンターのデータから分かる。同様に、日本でも2000年代後半から性行動が消極化していることが、青少年の性行動調査やJGSSのデータから確認できる(第三部)。

 ここから、ポストフェミニズム言説が広がった時期に性別役割意識および性行動に関する動向の変化が見られるということが明らかになる。「ポストフェミニズム期」の変化を同定するためには、性別役割意識および性行動の指標が有効であるという知見が得られる。

 

論点2 ジェンダー革命および性革命の変化の具体的内容を解明し、第二波フェミニズムの理論的限界を論証

 第二波フェミニズムおよびジェンダー論の理論的基盤は、保守派との抗争の中で確立されてきた。そのため、「保守的/解放的」の二元論を理論的前提としている。このことは、ジェンダー論の認識論上の「セックス/ジェンダー」や、方法論上の「本質主義/社会構築主義」という二元論に見て取れる(第四部)。

 しかし、ポストフェミニズム期には、この二元論では捉えられない社会現象が起こっている。個人主義的な意識が高まりと同時に性別役割分業肯定的意識が高まったことは、ジェンダー革命の質的変化を示すものである(第二部)。

 また、ダブルスタンダードな性規範の緩和や多様なセクシュアリティに対する寛容性の増加といったリベラル化と同時に、性行動の消極化が進んだことは、性革命の質的変化を示すものである(第三部)。

 ここから導出される知見は、ポストフェミニズム期に見られるようになったこれらの動向は、保守主義的な主張の一部とフェミニズム的な主張の弁証法的な総合であり、それゆえ「保守的/解放的」の二分法を前提とする第二波フェミニズムの理論枠組みでは、的確に把捉することができないということである。

 

論点3 ポストフェミニズムの女らしさを捉えるための理論枠組みの提示

 1980年代のフェミニズム理論によって確立された第二波フェミニズムの理論枠組みは「保守/解放」という二元論をその認識論レベル(「セックス/ジェンダー」)および方法論レベル(「実体‐対‐社会構築主義」)で組み込んでおり、それがポストフェミニズム期の変化を捉えられない理論的限界となっている。

 そこで、J.バトラーの解釈をめぐるトランスジェンダー研究の知見の検討を通して、可塑性/非可塑性を主要な分析軸とする、(1980年代の社会構築主義アプローチをより一歩洗練させた)新たな社会構築主義的アプローチを導出した(第7章)。

 この方法論的立場から性別らしさを可塑性の視点から分析した。その結果、ポストフェミニズム期の性別らしさは、社会/個人間/個人の3つの水準の再帰的構造の中で構成されているという理論枠組み(知見)が導出された(第8章)。

 

4 結論——全体として本論文は何を達成したのか、残された課題は何か

 メディア論的な表象・言説分析による知見を踏まえて、ポストフェミニズムについてのデータを社会学的に分析することで、第二波フェミニズムの理論的限界を明らかにしてきた。さらに、その限界を乗り越えるため、構築物の「可塑性」に着目する新たな分析方法を導出し、ポストフェミニズムの社会現象を把捉するための新たな社会学的理論枠組みを提起した。

 本論文の意義は、第一に、ポストフェミニズム期を特定するための指標として、性別役割意識および性行動の動向が有効であるということを、日米のデータを用いて実証したことにある(論点1)。

 さらに、他の国や地域のデータの検討を積み重ねていくことは今後の課題となる。この方向の研究蓄積は、ジェンダー革命及び性革命の進展に関する実証的な国際比較研究に資するものと考えられる.

 本論文の意義は、第二に、「保守的/解放的」の二分法を前提とする第二波フェミニズムの理論的限界を明らかにし、それに代わる新たな方法論および理論枠組みを提起したことにある(論点2,3)。ポストフェミニズム期におけるジェンダー革命と性革命の質的変化は、個人/個人間/社会レベルでの再帰性の高まりのなかで起こっているという新たな理論枠組みが導出された。

 個人化する社会におけるジェンダーセクシュアリティ秩序の解明という本論文の達成は、保守政党によるフェミニズム政策が進む2010年代中盤以降の日本のジェンダーセクシュアリティ・ポリティクスの解明という課題に対する、議論の基盤を提供するものと考えられる。ポストフェミニズム後の展開である、第四波フェミニズムと政府によるフェミニズム政策の関係性等についての検討は、今後の課題である。