ポストフェミニズムに関するブログ

ポストフェミニズムに関する基礎文献を紹介するブログ。時々(とくに大学の授業期間中は)ポスフェミに関する話題を書き綴ったり、高橋幸の研究ノート=備忘録になったりもします。『フェミニズムはもういらない、と彼女は言うけれど :ポストフェミニズムと「女らしさ」のゆくえ』(晃洋書房、2020)、発売中。

『やがて君になる』がすごくよい

 Twitterですでに呟いたのですが、やがて君になる』(原作2015-2019、アニメ2018)が素晴らしい。
 アニメ放映が2018年10月-12月で、これは『色づく世界の明日から』(2018)や『青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない』(原作2014‐、アニメ2018)と同時期。この3作品はいずれも、青春期に固有の精神的「歪み」を、少しだけ現実離れした場面設定の中に置くことで、効果的に物語化している。誰もがかつて持っていたことのある焦燥感や疎外感をフックに物語を駆動させるさまが、この3作品どれも際立って素晴らしい。感情の襞をここまで繊細に書けるなんてと思えるほど上手に描きとり、新海映画ばりの美しい映像に仕上げ(まぁ映画じゃないからスケール感とかは違うけど)、すごくよい音楽をつける。もうこれ以上洗練させることはムリなのではないだろうかと思われるほどの完成度。なんだこの芸術作品。って感じの作品たちで、これが同時期に3つも放映されていたのかと思うと、ジャパニメーションの安定的な高品質作品供給体制やばい、すごい。(ここまで繊細な感情を描いてしまうと、世界共通に伝わるということはない(=ユニバーサリティない)のではということが気になってしまったりもするけれど。)
 
2.
 さて、『やがて君になる』の良さは、第一に、ユリ関係だからこそ描けた主人公・小糸侑(ゆう)という新しいキャラ表象に成功しているところ(これはもうツイッターで言ったから、注で)。
 第二に、そのパートナー七海燈子(とうこ)の感情の論理、「私が私のままで価値があるとは思えない。だから、私が好きな人のことを私は好きになれない。私は君のことが好きだけど、君は私を好きにならないで」っていうのが、ひじょうによく筋の通った話として描けているところ!
 燈子キャラは、リスロマンティックの一つのあり方だが*1、 ここではリスロマンティック全体についてではなく、燈子というキャラクターが持っている固有の願望のあり方についてちょっと考えてみたいと思っている。
 
 燈子が侑に求めるのは、「君は私のことを好きにならないで。私に何も期待しないで。私を特別だと思わないで。だけど一緒にいて」というもの。つまり、自分が頑張って演じている「すごい自分」が愛されてしまえばちょっとした疎外感(本当の私を見てもらえていないという感覚)を持ってしまうが、何者でもない自分を愛されるのもヤだ(なぜなら、自分は何者でもない自分に価値を認めていないから)、だけど、誰かを好きになりたいし誰かにそばにいてほしいというのが燈子の願望。よくわかる論理だけど、すごい「わがまま」なわけよ。だって、相手(=この場合、侑の立場)からしてみれば、「相手に何らかの役割とかを期待してはいけないし、好きになってもいけない」のだが、相手が望むから一緒にいる・・・・・・、って「ん?なぜ自分はこの人と一緒にいるんだろうか?」っていう気持ちになるじゃん。互酬性が成り立たない関係を成り立たせる意志の力を「わがまま」という。
 
 通常、「わがまま」によって関係が成立している状況は見ている方も嫌になってくるはずなのだが、燈子は、2人きりになったとたんに恥ずかしがりまくってデレデレするからかわいくて、「もうかわいいから許す!」みたいなキャラよね。
 で、この作品は、話の落としどころをどこに持っていくかと言うと、燈子のわがままを受け入れている侑は、すでに燈子のことが好きだったんだ、という結論に持っていっている。当初、燈子に「君のことが好き」と言われても、侑は世間のマンガやアニメで言われているような感情にならなかったから「恋愛が分からない、別に燈子は自分にとって特別ではない」と思っていたのだけれど、燈子の切羽詰まったような願望(=上記で分析してきた「わがまま」)を受け入れて、一緒にいつづけたという時点で、すでに燈子を自分にとって特別な存在と感じていたし、好きになっていたんだね、っていう、そういう話になっている。おぉぉ、なんか深いでしょ。相手のわがままを、わがままだと分かりつつも受け入れることができてしまうとき、それを「愛」という、という話だ。
 これがもし異性愛の枠組みで描かれいたら(って、先にも述べたように異性愛の枠組みだと侑キャラが成り立たないからそれはないのだけれど)、フェミアンテナが立ってしまって「もやっ」としてしまうが、ユリなので「愛」ってこういうとこあるよなーと意外に冷静に議論できるのではないでしょうか、>みなさま。
 少なくとも私は、「好きだと相手のわがままを受け入れちゃうんだよなー。わがままを受け入れることは愛の必要条件ではないけど、十分条件ではあるんだよなぁ・・・・・・(遠い目)このようにして起こる相手のわがままの受け入れを、第三者が傍から見ていて「愛の名のもとに女性の抑圧が起こっている」と批判するのが(的確な時もあるけど)、的を外すこともあるのは、そもそも愛がこういう性質を持っているからなんだよなぁ・・・・・・」というふうに、案外冷静に分析することができ、愛の何たるかが一歩分かったような気持ちになりました。仲谷鳰先生ありがとう、アニメ製作スタッフさんありがとう。
 
(*)「ユリ関係だからこそ描けた主人公・小糸侑(ゆう)という新しいキャラ表象に成功している」
 小糸侑は、小さくて髪の毛ピンクの平凡かわいい系女子なのだが、誰に対しても「恋」という感情が分かない(心臓がドキドキしてくれない)ため、美人先輩が侑にデレデレで赤くなっていても、侑の方は「はいはい先輩、~ですよ」とクールに返す。「相手がこんなに好きという感情にいっぱいになっているのに、自分の感情は動いてくれない」という一抹の悲しさや疎外感が、侑のクールさの根底にはある。「自分も誰かを好きになりたいのに」という「恋」への憧れのようなものと、それが達成できない悲しさみたいなのが、侑のクールさを作っているというわけ。
 デレって恥ずかしがっている先輩(女でも男でもいいけど)を、Sっ気をかもし出しつつ平静にジーっと見つめるかわいい系小さい女子っていう類型は、ちょっと新鮮(なかなかそそるものがある)。気が強い系ツンデレ女子とも母性系とも違う、平静系クール小さい女子。
 
 恋愛相手に対して平静な態度をとる平凡かわいい系女子(侑タイプ)は、女性役割期待が強い異性愛の枠組みの中では使いどころが難しかった。女性役割の一つとして「かわいい」があるが、侑タイプは「外見かわいいのに、内面かわいくない」という形で外見内面ギャップが悪い方向に作用してしまうので。
 それに対して、ユリものは登場人物がほとんど女というケースが多く、そのなかでキャラを差異化するので、女性役割から逸脱できる幅が広め。『やがて』の場合、「お姉さま」の方がキュンキュンしてて、妹がクールという組み合わせが関係ギャップ萌えになるので、侑キャラも輝く。というわけで、小糸侑はユリでこそ描けるキャラでいいなぁという話でした。
 
以上。
 
 
追記で、ちょっとだけ俯瞰的な感想。
 しかし、まぁ、なぜ私たちは繰り返し中学生と高校生の話を描き続け、それを見続けているのだろうか。自他に対する強い関心を持ち始めた最初の時を、リセットボタンを押して何度も繰り返しやり直そうとしているかのよう。
 ストーリーを作るときの型として青春期が使われているのだが、ここまで完成度の高い作品を量産できるようになってくると、もうやることなくなってきたんじゃないのだろうかという気もするのは、私だけなのか? 中年のおじさんと女子高生の話とかじゃなく、家族愛ものでもなく、ふつうに中年のおじさんとおばさんの生きるのつらいよね+恋愛とか、老人から見えている世界+老人の恋愛の話とかをアニメで作るという意欲作が現れたりしないのだろうか。視聴者層が加齢してるし、作れば視聴者はついてくるのでは。団塊の世代とか、けっこうアニメ見るのではと思ったりしました。

*1:リスロマンティックに関して、PC的に言っておくべきことを言うと、『やがて君になる』は「自分を好きになれない自分」を相手との関係を通して、少しずつ受け入れていくという話なので、リスロマンティックという恋愛感情のあり方は、最終的に乗り越えて行かれることになる成長過程の一段階のものとして設定されている。ただし、全てのべての「リスロマンティック」が燈子みたいな感情の論理で成り立っているわけではないし、だから全てのリスロマンティックが「成長」によって乗り越えられるべきものだと理解することはできないと私個人は思っている。、