ポストフェミニズムに関するブログ

ポストフェミニズムに関する基礎文献を紹介するブログ。時々(とくに大学の授業期間中は)ポスフェミに関する話題を書き綴ったり、高橋幸の研究ノート=備忘録になったりもします。『フェミニズムはもういらない、と彼女は言うけれど :ポストフェミニズムと「女らしさ」のゆくえ』(晃洋書房、2020)、発売中。

キリトはなぜGGOで男の娘になるのか

0.

長くなったので、最初に結論を言います。

前提:元の平凡な少年であるよりも、男の娘の方が、女のコ(シノン)との恋愛の駆け引きをしやすく、また女のコを陥落させやすい。

結論:物語展開上、シノンと恋愛の駆け引きをする必要があったので、キリトは男の娘になった。

 

 

1.

2000年代後半から、国文系の人たちのラノベ研究がじゃんじゃん出てきていて、とても勉強になります。

とりあえず、『ライトノベル研究所説』(2009) や、

ライトノベルスタディーズ』(2013)。(その他についても、今後追加していきます。)

 

ライトノベルという名称が確定したのが2000年代前半。2000年代中盤ぐらいだとまだラノベは「一時的な流行でしかない、そのうちすたれるだろう」という観測もあったと思うのですが、2000年代末頃になると、もはや無視できないよねということが決定的になってきたのではないかと推測します。売り上げが文字通り桁違いに違うし(普通に0が二桁とかマジで違う)、クオリティとしても高いものがあるとようやく国文アカデミズムの中でも認められ始めたというかんじなのかなと。

ライトノベルスタディーズ』(2013)所収の論文「トラブルとしてのセクシュアリティ」において、久米依子さんは「男の娘がラノベの標準仕様になった」(久米2013:69)として、男の娘について論じています。

 

ちなみに男の娘の定義を『現代思想 特集:男の娘』(2015年9月)を参考にしつつ、ここで暫定的に確定させておくと、

1、若い男性が、美少女になること(一定水準を満たした美を有していないと、男の娘とはいえないらしい)。二次元が多いが、二次元から影響を受けて近年は三次元でも展開されている。

2、「女装子」、「ニューハーフ」、「おかま」、「シーメール」、「ドラァグ・クイーン」、「トランスヴェスタイト」とは区別される。

 

 さて、

久米論文はオーソドックス(正統的)なジェンダー論の観点からの「男の娘」論です。

女性の男装は、1960年代から見られるもので、「劣位のジェンダーである女性が、優位の男性を志向し模倣する」もので、これは、既存の「ジェンダーの階層・秩序のシステム」に則ったものであり、「制度内での階層上昇志向」でこそあれ、「ジェンダーの根本的転覆をはかる」ものではなかったから、「秩序を強化する面を持つと言えるだろう。」(久米 2013:71)。

しかし、今起こっているのは、男性キャラクターの女装である。なぜ、上位のジェンダーがそのパワーとポジションを手放すのか?というふうに問いが立てられます。

・私個人としては、性的・恋愛的に魅了された方が弱い立場になるという恋愛関係の規則を踏まえれば、男の子が、性的に魅力的で強者であるかわいい女の子になるという選択肢は、パワーとポジションの獲得(上昇)である、と考えることも可能だとは思います。

が、とりあえず、オーソドックスなジェンダー論の観点から言えば、久米さんの問いの立て方は妥当なものと言えます。

 

で、「男の娘」作品を分析した結果の久米さんの答えは、

「 男の娘」の機能として、

1)エロい美少女表象機能:少女にはできないような大胆な行動と姿態で男性キャラクターに迫ることができる。ユリ的展開にすることで、物語展開上の負荷を負わずに、いろんなカップリングのエロいシーンの回数を増やせるというのも、男の娘化のメリット。

2)女らしさの代替表象機能:男の娘は、他の女性陣よりも旧来の女らしさを持つキャラクターになっている。

3)男性性解除機能:男性がリードすべきだという規範から逃れることができる。

 

といったあたりが述べられています。

また、男の娘作品は、男性視聴者のどんな欲望に答えたものになっているのか、について

・美少女になって美少女のように愛される存在になりたい、愛されて肯定されたいという視聴者男性の願望が見えるように思われる(久米2013:79)

・少女たちの生態をのぞき見、少女コミュニティで一緒に戯れたいという願望←ここには、自らの男性性を嫌悪するミサンドリーがあるかも?という指摘も。

・交際して責任を負う男性としてではなく女の子と混ざって遊びたいという願望

・男性がもつパワーとポジションから降りた状態で遊びたいという願望

・男性が女性をリードすべきだという規範を回避したいという願望

などが挙げられています。フェミニズム原理にのっとったオーソドックスな(正統な)論点と論理展開です。

 

2.

しかし、『ソードアートオンライン』(SAO)の主人公少年・キリトの「男の娘」化に関しては、どうも久米枠組みでは分析しきれないように思われます。

その最大の原因は、トリックスターの脇役が男の娘なのではなく、主役が男の娘だからでしょう。(したがって、今後主人公少年の「男の娘」作品のみを抽出して分析する必要ありますが、ま、その作業は次回に回すとして、ここはSAOだけでいきます。)

 

SAO第一期で主人公キリトは戦いと出会いを重ねて成長していき、一人の少女と結ばれ、なんと16歳にしてAIの「娘」を持ち(その後、作品内で執拗に「パパ」と呼ばれ続けるのだ!「父になれない」ことに悩んだセカイ系の影は完全に消えています)、王道主人公の英雄的カッコよさを見せつけます。その彼は『ソードアートオンラインⅡ』において、 女性と見まがうほど美しいアバターにコンバートしてしまい、男の娘になる。

・ちなみに、男の娘アバターを自分で選んだのではなく、ゲームのコンバートによってシステム上勝手にそうなっちゃったという設定は、心憎い(=すばらしい)。ゲームの世界では、基本的にアバターは自分で自由に選べますが、現実では身体というのは自分で選択できるものというよりもすでに与えられてしまっているものであり、それでやっていかないといけないもの。こういう身体感覚レベルのリアリティ(現実性)の感覚を、VRゲーム設定のなかにねじ込んでくるのは、作者・川原礫の力量。

 

男の娘になったキリト(便宜上、以下キリコ)の性格や行動は変わらず、中の人(声)もかわらない。

上記の

2)女らしさの代替表象機能:男の娘は、他の女性陣よりも旧来の女らしさを持つキャラクターになっている。

3)男性性解除機能:男性がリードすべきだという規範から逃れることができる。

 の機能は、キリコにはほとんどみられない。1)エロい美少女表象機能はまぁまぁある(うーん、エロくはないか、かわいい美少女が一人増えるという機能はある)。

というわけで、キリコを位置付けるためには、久米論文枠組みをふまえつつそれを越えて、考える必要がありそうだな、と思う次第です。

 

 3. 

さて、なぜキリトはGGOで男の娘になったのか?

 

これを考えるには、百合展開アニメの流行という要素を考える必要がある。

最近のアニメは、日常系(空気系)でも、バトルものでも、女の子しか出てこない男性向けアニメってのがたくさんあります。百合エロものでふりきったものとして『ユリ熊嵐』(監督・幾原邦彦)。

疲れてきたので最初に結論を言ってしまえば、ヘテロ恋愛関係カップルのエロい展開はもはや新鮮味がないけど、百合カップルの恋愛エロ展開は、新鮮味がある。だから、キリトくんは、男の娘になったのだというのが結論としては穏当なところなのではないかと、考えています。

 

けっして、キリトくんはシノンちゃんとの恋愛展開を避けるために、女の子の外見になったのではない。アスナちゃんという恋人も現実にいるし、シノンと恋愛するわけにはいかないから、「男の娘」化したのではない。そういう、純愛回帰、純潔重視、倫理的な高潔さという方向性の解釈は不可能。

 

むしろ、SAO第一期では、恋愛に奥手だったキリトくんが、SAOⅡで人の恋愛感情に敏感になり(『ソーソアート・オンライン5 ファントムバレット』6、シュピーゲルとのファーストコンタクト時のキリトの反応:「へえ、ほう、ふーん、と思った俺はちょっとした悪戯心で、彼の混乱に燃料を注いでみることにした」)、シノンの友情とも恋愛感情ともつかない感情をうまく刺激して使いながら初参戦のBoB(ゲーム内のバトルロワイヤルゲーム)を切り抜け、自分の目的を果たすという展開になっていること(例えば、同上7の幕切れシーン)を考えると、恋愛的・性的魅力を自分の資源(力)にしていくために、「男の娘」化していると考えることができます。

 

男の娘は、百合という映像的新鮮さを供給しつつ、ハーレム構造を強化しているということですね。

 

問い:なぜキリトは男の娘になったの? 

前提:元の平凡な少年であるよりも、男の娘の方が、女のコ(シノン)との恋愛の駆け引きをしやすく、また女のコを陥落させやすい。

結論:物語展開上、シノンと恋愛の駆け引きをする必要があったので、キリトは男の娘になった。

 

ここから得られた知見:男の娘って「かわいいは正義」のかたまり。男の娘は、恋愛的・性的魅力を人的・社会的資源にしていく人間関係形式の一表象である。

 

男の娘は、〈同性愛/異性愛〉の境界を撹乱していく力はあるけど、〈性的に魅力的/魅力的でない〉の境界線をこれまで以上に強め、「性的に魅力的な人が強者」という価値に基づく価値序列編成を進めていくものと考えることができる。(→これまでのフェミニズムルッキズム批判を見直す必要があるなぁ。)

 

 

最後に、今回の議論で、検討しきれなかったのは、

そもそもなぜそんなに、男性向け作品で百合展開が一般化してるの?というところですよね。百合文学は久米さんのご専門でもあるので、私はもう少し久米さんの議論やその周辺の少女文化論なども勉強しながら、考えてみようと思っています。

 

視点人物となる男性が作品中から消えて女の子だけになるのは、マッチョさの再強化だという宇野さんの陣営と、

消えるのは男性性忌避であり、マッチョさから抜け出そうとするオタク的良心であり、そこにオタク的可能性があるんだという東さん的なものの陣営がありうると思うんですけど、そこらへんをもうちょっと丁寧にきちんと考える必要があるだろうと思います。