ポストフェミニズムに関するブログ

ポストフェミニズムに関する基礎文献を紹介するブログ。時々(とくに大学の授業期間中は)ポスフェミに関する話題を書き綴ったり、高橋幸の研究ノート=備忘録になったりもします。『フェミニズムはもういらない、と彼女は言うけれど :ポストフェミニズムと「女らしさ」のゆくえ』(晃洋書房、2020)、発売中。

NHKがキズナアイを起用したことを批判するフェミニストを批判する女性たちにみる、ポスト・フェミニズム的態度の特徴2つ

いまさらですが、NHKキズナアイ問題に気づきました。遅すぎて、すいません。

このブログはポスト・フェミニズムをテーマとしているので、下記のまとめについて検討します。


togetter.com

 

ポスト・フェミニストの最も簡潔な定義は、フェミニズムに違和感を示す女性です(→過去記事も参照してください)。したがって、上記まとめに見られる意見は、ポスト・フェミニズムの典型例といえます。

 

上記まとめから例をあげつつ、ポスト・フェミニズム的態度の特徴をまとめます。

 

1、①自分の身体が性的に見られていることに対する苛立ちが基盤にあり、②女性の身体が性的に見られているという現実を指摘するフェミニストに対して怒りをぶつける。

②「ほんとこれ。実在女性や女性キャラクターのことや服装をいちいち「性的」「性的に強調」って表現されるの本当に不快。」

①「こっちは性的に強調してるつもりもなければ生まれつきの身体なんだよ、ほっとけ。女の服装に性的レッテル貼ってケチつけるな。」

ツイッターを引用するさいの作法ってわからない!本として出版されているものならここに著者名を書くけど、さすがに公開アカウントでつぶやかれたものだからといって、むやみにこういうところに個人のアカウント名を書くのはまずいよね?…というわけで、「」内は上記のまとめサイトから引用、①②は本ブログ管理者による挿入)

 

この二つのツイートは投稿時間から見て、続きのツイートだと思われます。前者②のツイートでは、肌露出の多い「キズナアイ」がNHKノーベル賞解説キャラとして採用されたことを批判するフェミニストに対する苛立ちが表明されており、後者①のツイートは、ツイート主の女性の身体を性的に見ているかもしれない世の男性(の一部)に対する苛立ちが示されている。「こっちは性的に強調してるつもりもな」いのに、「女の服装に性的レッテル貼」って見てくるのは、フェミニストではなくて、まず世の一部の男性なのでは? しかし、なぜかその怒りは、もっぱらフェミニストへ向けられている。二つの苛立ちが混同されているのだろうか?

 

②「「キズナアイは性的に強調してる」って価値観は「気持ち悪い」と言わせてもらう。何でもかんでも性的に見過ぎ。それじゃ誰も迂闊に外を歩けないでしょ。性的強調の要因の乳袋ついてるし。」
①「キズナアイで性的に強調と言われる世の中じゃ、採用面接はリクルートスーツじゃないと危険だね。「性的に強調してる」と思われちゃう。」(同上)

これも、女性の身体を性的に見ている社会(「世の中」)に対して怒っているはずなのに(後者①のツイート)、「キズナアイは性的に強調してるって価値観」すなわちフェミニストキズナアイ観を批判する(②)形になっている。

  

「「この二次元女性キャラクターは性的に強調している!」は実在女性の私にぶっ刺さったし、私を傷つけた弁護士たちのことをとても嫌いになったよね。なんでも性的に感じてるなよと。」(2018-10-03 08:31:50)

「日本のフェミニズムを非常に迷惑だと感じている女です。」(2018-10-03 08:49:00)

 

 

ここらへんをみると、

ステップ1:自分の身体が性的にまなざされているかもしれないという不安や怒りを日頃から持っていた。

ステップ2:「キズナアイ性的なものが強調されたキャラクターです」というメッセージが、「あなたの身体は性的です」に変換され、

ステップ3:そのメッセージを発した人(フェミニスト)に対して怒る

 というねじれた状態にあるように見えます。いやそうじゃないんだ!という方や、違う解釈の仕方に思い至った方は、ぜひ教えてください。

 

2、フェミニストが「社会の男は女を性的に見ている」と言うから、実際にそうなっているんだという、ラディカルな構築主義的態度がある。

 

「下乳のラインが服の上から分かると性的強調か。そういうこと言うバカがいるだろうから、日常では下乳に服が挟まらないように気を遣ってるんですよ」

  

ここで言われている「そういうことを言うバカ」は、文脈上キズナアイの問題性を指摘したフェミニストを指しています。フェミニストがそう言うから、彼女は日々の生活でも気を遣わないといけない状態に陥っていると、考えているらしい。実際にはフェミニストが言わなくても、そのように見ている男性(もちろん「すべての男性」ではない)がまず存在していて、だから彼女は日々バストラインが出すぎていないかとかそういうことを気にせざるをえなくなっているのでは?と私は素朴に思ったりするのですが、そういう私ってポストフェミニストと比べると、本質主義者かも。

 

もう少し、ポスト・フェミニズム構築主義性がわかる例をいくつか。

「こうやって可愛い女の子のキャラクターを猥褻物呼ばわりすることで、女の子が女の子の身体であることを恥ずかしいと思うようになってしまうのが嫌だ。スカートも身体のラインを見せる服も、別に男のために着ているわけじゃない。自分の身体を美しくみせて何が悪い。」

 

フェミニストが「猥雑物呼ばわりする」から、「女の子が女の子の身体であることを恥ずかしいと思うようになってしまう」という論理が見られます。

で、上記のツイートに続いて、こんな感じで暴走していく。

 

「女性が女性らしく丸みを帯びた身体つきになることは、決して恥ずかしいことや不潔なことではない」と幼い女の子に教えてあげるのが、まともな大人の役目では?女性の胸をいやらしいと蔑み、真っ平らに描くことを推奨するのは変だと思います。子どもが健やかに正常に発育してゆくことを否定しないで。」

「女の子が自由に生きるということは、女の子らしさを隠して男性のように振る舞うことではありません。女性性を抑圧し、他人の服装や芸術にまでそれを押しつけ、性的なものを嫌悪し、女性が女性らしくあることを隠して生きることを推奨する人たちを、フェミニストと呼ぶのは止めてもらいたいです。」

 

これについては、いまどきそんなこと言うフェミニストはほとんどいない(古くさすぎるフェミニスト像だ)の一言ですむので、そんなにクリティカルな問題ではない。

最も注目すべき点であり、今後対応を考えていくさいの難点となるのは、ポスト・フェミニストたちの構築主義性だと思います。

 

以上より、明らかになったこと。

フェミニストが「これは女性差別的表現だ」というたびに、

現代のフェミニスト嫌いな女の子たちは、日々感じていた「差別されている感」や、不安、怒りを思い出し、それらを思い出させるきっかけとなったフェミニストに怒るというねじれがあるように見える。

そのねじれを支えているのは、ポストフェミニスト構築主義性である。

 

 

 

今回のような「キズナアイ批判―批判」の立場を取る女の子たちと対話するさいの方針としては、

 第一に、「女性」カテゴリー語りをなるべく避け、もう少し細かいカテゴリーを使うようにがんばってみる。 

・ちびっ子少女たちのなかには、キズナアイをふつうにまじで「かわいい」「モテに最も近い存在」「私の理想の女の子像」と思っている子もけっこういる可能性が高いため。

・それぞれの自分の「女」としての実感をぶつけ合っても、議論にならないため。

 

第二にキズナアイのような肌露出の多いキャラクターが公式の場で大手を振って出てくることで、傷つく子や傷つく大人もいるということは主張し続けるべき。「痛み」として表出しつづける必要がある。

 

 

最後に、

千田さん本当に頑張っている。申し訳ない。

現状だと、有名人一人に過剰な負担(これは明らかに大きな精神的負担だ)をかける仕組みになってしまってるのが問題だと思う。公的機関や社会的影響力の大きい大企業のCM等のジェンダー表象問題→炎上は、短時間で瞬発的に対応しないといけないという性質があるために、現在こういう状態になってしまっている。しかし、一人だと、容易に個人批判、人格批判を誘発する(実際ひどいことになっている)。組織的に対応できるような仕組みを作る必要があると思う。

たとえば、「公的発言におけるジェンダー差別を許さない会」みたいなかんじで。

呼びかけ人(五十音順)
申琪榮(お茶の水女子大学准教授)、千田有紀武蔵大学教授)、中野麻美(弁護士)、西川有理子(パリテキャンペーン)、三浦まり(上智大学教授)、皆川満寿美中央学院大学准教授)、村尾祐美子東洋大学准教授)、柚木康子(公人による性差別をなくす会)

これは、炎上じゃなくて、時間かけてやる企画ものだから、組織的にできるんだよな。