ポストフェミニズムに関するブログ

ポストフェミニズムに関する基礎文献を紹介するブログ。時々(とくに大学の授業期間中は)ポスフェミに関する話題を書き綴ったり、高橋幸の研究ノート=備忘録になったりもします。『フェミニズムはもういらない、と彼女は言うけれど :ポストフェミニズムと「女らしさ」のゆくえ』(晃洋書房、2020)、発売中。

アメリカにおける性行動の不活発化:GSSデータ18歳から44歳の成人男女を分析した論文の紹介

2022年11月25日追記

こちらで紹介した論文の最新データが出ています。

 https://bedbible.com/sex-frequency-statistics/

こちらがオリジナルデータとなります。ご参照のさいは、こちらをお使いください。
 

1.概要

性行動の不活発化は、アメリカでも起こっています。

Peter Ueda, Catherine H. Mercer, Cyrus Ghaznavi,  Debby Herbenick, 2020, "Trends in Frequency of Sexual Activity and Number of Sexual Partners Among Adults Aged 18 to 44 Years in the US, 2000-2018", JAMA Network Open. 2020;3(6):e203833. doi:10.1001/jamanetworkopen.2020.3833

 

この論文では、GSS(General Social Survey)の2000年から2018年のデータを分析。

これまでも、2000-2014年のGSSデータ分析から、若い世代ほど性行動が不活発化しているということが指摘されてきていた。
20-24歳時で、セックスパートナーがいないと答えた人の割合は、

1965年から69年に生まれた人(以下出生コーホートと呼ぶ)の6.3%、

1970-79年出生コーホートの11.5%、

1980-89年出生コーホートの11.7%、

1990-94年出生コーホートの15.2%と、若い世代ほど増えている。

このような動向を受け、アップデートされた2018年までのGSSデータを分析したのがこの論文。結論から言うと、

性的不活発が増大している。18歳から24歳の男性の3人に1人が、この1年間に性行動(sexual activity)がなかったと答えている。また、25歳から34歳の男性と女性の両方で、性的不活発が増大している。
This survey study found that from 2000 to 2018, sexual inactivity increased among US men such that approximately 1 in 3 men aged 18 to 24 years reported no sexual activity in the past year. Sexual inactivity also increased among men and women aged 25 to 34 years. These findings may have implications for public health. 

2.詳しく解説

まず、性行動を何で測定しているかというと、性的頻度と性的パートナーの数。
性的頻度:過去一年の性行動(sexual activity in the past year):過去12か月でどれくらいセックスしましたか?( “About how often did you have sex during the last 12 months?” )

回答を、以下の4つに分類して分析。
(1)まったくない(“not at all”)から、
(2)年に1~2回
(3)月に1~3回
(4)週に1回かそれ以上

性的パートナーの数: “How many sex partners have you had in the last 12 months?”

回答を、以下の4つに分類して分析。

(1) 一人もいない
(2) 1人
(3) 2人
(4) 3人以上

 分析結果

2000年-2002年と、2016年-2018年を比較すると、18歳から24歳の男性で、この1年間に性行動がまったくなかったとした人が、18.9%から30.9%へ上昇(およそ3人に1人)。女性においては大きな変化は見られない。

25歳から34歳の男女においても小さな減少が見られた (男性7.0%→14.1%、女性7.0%→12.6%)が、35歳から44歳には変化が見られない。

性的活発層は減少している。すなわち、性的頻度が「週に一回かそれ以上」と答えた人の割合は、男性25‐34歳で65.3%→50.3%、女性25-34歳で66.4%→54.2%と減少。

セクシャルパートナーが1人と答えた人の割合も減っていて、男性18-24歳で44.2%→30.0%、女性25-34歳で79.6%→72.7%。この減少はとくに未婚男性で起こっている(未婚男性18-44歳が16.2%→24.4%)。

ただし、既婚男女の性的活発性も低下していて、既婚男女で性的頻度が「週1回かそれ以上」と答えた人も減少している(既婚男性 71.1 %→57.7%、既婚女性69.1%→60.9%)。

所得別で分析すると、低所得男性は、高所得男性や女性より、性的に不活発になっている。

 

3.感想(高橋コメント)

・既婚男女の「週1回かそれ以上」の人の割合が低下しているとはいえ、およそ60%程度だということが、日本文化圏に生きる我々にとっては衝撃的だったりする点です。

・このような論文を読むと、ネオリベによる中間層の解体は、経済的領域における不安定性・底辺化だけでなく、「家族」や性愛などの親密な関係性からの排除を伴っていたのだということが露骨に見えてきます。この点について真剣に考える必要があります。

アメリカのデータでも、日本と同じような若者の性行動の不活発化が見られ、このことはどうやら2000年代から指摘されてきているようで、このあたりについての論文もこの後、まとめてご紹介する予定です。

プロテスタンティズムの倫理とロマンティックラブの精神:デビッド・ノッター『純潔の近代』の論点整理から

1.近代的主体を構成する原理としてのロマンティックラブ

かの有名なプロ倫(『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』)にオマージュを捧げつつ、「プロテスタンティズムの倫理とロマンティックラブの精神」を、現在語るべきだという話をしたいと思っています。すなわち、近代的主体を構成する主要な要素としてロマンティックラブ(の成立)があるという話です。

これまで『プロ倫』についての図式的・教科書的な説明として次のようなことが言われてきました(私も公務員試験対策の社会学の授業とかで、以下のようなことを喋った記憶があります)。

  • 近代資本主義はプロテスタントの地域(ドイツ、プロイセン)から始まった。カルヴァン予定説の「召命」に基づくプロテスタントの勤勉さと清貧。それが、蓄財→設備投資→資本主義の発展を可能にした。
  • 資本主義に適応的な功利主義個人主義(自分の利得を最大にすることを合理的なふるまいとみなすこと)の原則の確立と、それが社会道徳と調和する(神の見えざる手)という考え方の確立

ここで言われるような「資本主義の精神」と同様に、とても重要なものとして「ロマンティックラブの精神」があるのではないかと私は思っています。ロマンティックラブはプロテスタンティズムの倫理のもとに成り立ったものであり、そして、これは近代的主体のエートスをなすものだった。

資本主義というシステムが、プロテスタント以外の社会でも定着したように、ロマンティックラブらしきものも、近代化とともに世界において定着した。資本主義に地域ごとの多様性があり、資本主義のバリエーションがあるように、それぞれの地域で「ロマンティックラブ」だと思われているものにも多様性があるのではないか。

  • 個人の人生を物語として語る様式(ラブロマンス)の確立を通して広がっていったのが、ロマンティックラブという考え方(必要であればイデオロギーと呼んでもいいが)。
  • ロマンティックラブとは、自己探求(自己実現)としての愛のことである。このようにして「恋愛」は、個人の人生を構成する原理の位置を獲得する。 

といった背景を踏まえた上で、現在の日本のロマンティックラブのあり方とその変容(多様な愛の肯定へ)という問題を捉えた方がいいだろうと思っています。

そういえば、ギデンズ先生も

「ロマンティックラブにたいする抑圧されたこだわりは、マックス・ウェーバープロテスタンティズムの倫理の中に一体化していることを見出した諸特徴と同様、歴史的に独特なものであった。」『親密性の変容』(p.65)

と言っておりました。ギデンズは情熱恋愛は広い時代や文化圏で見られるものであるが、それに対してロマンティックラブは、「文化的にかなり特異な感情である」(p.63)としています。

 

ちょっと、以下概念がややこしくなるので、先にまとめておくと、ロマンティックラブ<情熱恋愛<恋愛結婚 となっています。

「ロマンティック・ラブ」はすごく狭い範囲のことを指す概念。ある時期のキリスト教圏で成立したもの愛の様式のこと。

「情熱恋愛」は強い興奮や相手の人格への思い入れのような非日常的な精神状態を伴う恋愛のこと。

「恋愛結婚」は、どのような愛情や愛情表現様式を伴っているかにかかわらず、ともかくも「当人が相手への愛情に基づいて結婚相手を選ぶこと」を指します。(最後のやつだけ、愛の様式の話ではなく、「結婚」の形態の話なので、なんか同列にするのは変ですが、ま、そう整理しておくととりあえず今日の話は分かりやすいので。)

 

2.

さて、ロマンティックラブとは一体何なのでしょうか。

これまでロマンティックラブとはとりあえず「恋愛結婚」のことと理解されてきました(量的調査の操作的定義でそうなっていることがある)。「愛と結婚と性の三位一体」という説明が一般的です。「運命の人と出会って恋に落ち、結婚して、生涯を添い遂げるということが幸せな人生だ」とするシンデレラストーリーのことを、とりあえずロマンティックラブと同義としている議論も見かける。

しかし、ロマンティックラブとは基本的には、欧米の18世紀後半から19世紀に確立した歴史的概念。だから、日本において本当にロマンティックラブは成立していたのか?ということや、日本で言うところの「恋愛結婚」と「ロマンティックラブ」とはどのように同じで違うのかといったことを、きちんと考えることが重要。

この後、紹介する文献を検討した結果、私は、日本においてシンデレラストーリー恋愛結婚は定着したが、狭義のキリスト教圏で成り立っていたような意味でのロマンティックラブは成立しなかったと考えるのが、論理的にもっとも明瞭になると思っています。(情熱恋愛という概念はギデンズ先生の概念なので、今日のところは脇に置いておく)

いま「日本のロマンティックラブの変容」とか論じられているけど(っつーか、私が本の中で「ロマンティックラブからコンフルエントラブへ」という構図で論じてしまったけれども…あぁぁ)、そもそも日本においては、キリスト教圏で成り立っていたような狭義の意味でのロマンティックラブは成り立ったことがないよね、という指摘はたいへん重要。

その仕事をやっているのが、デビッド・ノッター氏の『純潔の近代:近代家族と親密性の比較社会学』(2007)です。

 3.ノッター本が提起している論点

ノッターさんによると、近代化とは純潔化である。すなわち、近代化のプロセスにおいては、性から切り離された愛に価値をおく価値観の登場と普及が見られる。この現象は、アメリカでも日本でも見られる。

だが、アメリカでは、ロマンティックラブの理想の普及と近代家族の定着は同時期に起こった。具体的には、アメリカでは1830年代頃に近代家族が定着(p.35)。それによって、ロマンティックラブで結ばれた夫婦の愛情を中心とする、聖なる「ホーム」概念(スイートホーム)が成立した。

一方、日本では、大正期の中産階級において「恋愛結婚」を理想とする言説が見られるが、それはロマンティックラブというよりは「友愛結婚」(ストーンが言う意味での)だった(p.12)。

なぜそれを「ロマンティックラブ」と言うことができず、「恋愛結婚」とすら言えないのかというと、この時期の日本の中産階級においては「男女交際」が成立していなかったから。日本では、婚前に本人たちが異性と交際するというプロセスが、純潔の観点から言ってひじょうに危険なものとして問題視されたので、男女交際というカルチャーが成立しなかった。交際がないので、本人が相手への愛情に基づいて結婚相手を選ぶということは、実質的にはできていない。したがって、これを恋愛結婚ということはできない。

  • アメリカでも「純潔」が重視され、婚前交渉に対しては厳しい目が向けられていたにもかかわらず、なぜ婚前の「男女交際」の文化(デーティングなど)が広範に成立しえたのかというと、中産階級の男性が「リスペクタビリティ」の観点から、性欲の自制を「男らしさ」の証として重視したため。日本の大正期の純潔運動において、男性のマスターベーション有害論は見られるが、女性との実際の接触の中で、二人きりになったとしても自制することを、文化的に価値化するようなシンボル体系は成立しなかった。

アメリカでは自己統制によって性欲の統御や抑制が可能であり、とくに困難なものではないと思われていたのとは対照的に、近代家族が形成される時期の日本では、抑制できなものとしての「性欲」の言説が主流となった。(p.54)

→この見解を赤川さんなどを引きつつ、ノッターさんは述べています。日本では「おさえきれない性欲」の強さやそれを表現することが「男らしさ」を意味するみたいなシンボル体系(意味論)が成立していたのだと言えると思われるが、なぜ日本ではそのような意味論が成立したのだろうか、その文化的・社会的背景としてどのようなものがあるのだろうかということが気になる。日本でも大正期には階級があったのに、なぜ日本の中産階級の男性は性欲の自制を「男らしさ」とする価値観を形成しなかったのか。中産階級の人口規模の問題かなぁ?

  • アメリカでは1830年代から若い男性の性的純潔を促進するための改革運動が始まっており、結婚するまでは青年は童貞でなければならない、自慰はしてはいけない といったことが主張された。当時の医師などの識者が、男性に向けてこういう情報を発信したのだが、この見解が男性自身に受け入れられていった背景には、性的なものが持つ「身体を穢す力」が「不浄なもの」として男性によっても恐怖されていたから、で、その穢れを聖なる「スイートホーム」に持ち込むことを極端に恐れたからである、とのこと(p.34)。

では、戦後の日本はどうかというと、戦後には「男女交際からの恋愛結婚」という流れが成立した。1960年代後半に、結婚全体に占める恋愛結婚割合の方がお見合い結婚割合よりも高くなっている。

だが、その頃から、日本もまた世界の先進国と同様に「性解放」時代に入っていくので、「純潔」概念が揺らぎ始める。

ノッターさんによれば、ロマンティックラブとは純潔の観念と恋愛結婚の観念の両立を必要条件とするが、日本では、

  • 大正時代:純潔規範 〇、恋愛結婚のための仕組み(男女交際)×(なし)
  • 1960年代後半以降:純潔規範 △(ゆらぎ)、恋愛結婚のための仕組み(男女交際)〇

というように、この二つが同時にきちんと保たれた時期はないか、あってもひじょうに短い。だから、日本では、ロマンティックラブは成り立っていない、というのが彼の主張。

「ロマンティック・ラブ・イデオロギー」の大きな特徴は、結婚は恋愛に基づくのみならず、「純潔」が大きな役割を果たしており、「純潔」という重要な要素を付け加えると「愛―性—結婚の三位一体」という形で結実するのである。しかし、日本の場合は、「純潔」の規範が健全だった頃はまだ「見合結婚」が主流であった。「恋愛結婚」が多数を占めるようになった1960年代は「純潔」の規範が揺らいでいた時期であり、「恋愛結婚」がごく一般的になった時期には「純潔」の規範はほぼ崩壊していたのである」(p.123)

1970年代に「「純潔」の規範がほぼ崩壊していた」は少し強すぎる表現のような気もしていますが、でも言わんとすることはわかる。アメリカはロマンティック・ラブの時期を1830年代から150年間くらいやってきた(イギリスはもっと長い)が、日本で、愛に基づいて結婚相手を選ぶ恋愛結婚が実質的にできるようになり、かつ性は結婚内部でのみ聖なるものとして正当化される(だから婚前交渉は不可)という純潔規範とが両立していた時期は、1960年代後半から1990年代くらいまでの長く見積もっても30年くらいしかなかった。バブル期のイケイケのセクシーな格好をしていたお姉さんたちは、意外に婚前交渉はしていなかった(純潔規範は成立していた)という話とかもあるにはあるのでまぁ、90年代までの25年から30年は成り立っていたと言ってもいいような気もします。が、それにしても、この短期間で人々の情愛の持ち方や愛情をめぐる行動様式が変わったり、新しいものが定着したりするとは考えにくい……。ロマンティックラブが定着したとはちょっと言いづらい。ロマンティックラブとは異なる恋愛と結婚の考え方があると考えた方がいい、と。

というわけで、ノッターさんの主張は、「日本の場合、近代がもたらしたのは情熱恋愛というよりも友愛結婚と呼ぶべきものである」(p.12) 。これは、日本の今の恋愛と結婚のあり方について考える上で、めちゃくちゃ重要な指摘です。

日本の近代がもたらしたのは「情熱的」というよりも「温かい」夫婦愛を特徴とする友愛結婚であった。配偶者選択家庭においても夫婦関係においても、それはまさに「近代的」と呼ぶにふさわしいものであった。(p.84)

このような議論に基づいて、ノッターさんは、「「恋愛結婚の普及=(近代家族の一側面である)ロマンティックラブ・イデオロギーの定着」という単純な等式」(p.130)を前提にすることに対して異議申し立てしている。

家族社会学のなかでも、もはや「恋愛結婚の普及=(近代家族の一側面である)ロマンティックラブ・イデオロギーの定着」という単純な等式に頼らず、文化の視点、および歴史の視点、または比較の視点を取り入れた観点から「恋愛」や「恋愛結婚というものを考え直されなければならないのではないだろうか。(p.130)

至極妥当な見解です。ノッターさんのこのご研究が出た後に、この点を考えずに恋愛の社会学を展開するわけにはいかないよなという感じが、個人的にはしています。

 4.

キリスト教圏のロマンティックって何?っていう話は、すごく大きな問いなので、次回改めてまとめますが、ここまでの議論からだけでも、ノッターさんは少なくとも、

  • 当人の愛のみに基づいて(愛の感情を最優先にして)結婚相手を決めることと、
  • 純潔規範が維持されていること(婚前の性交をしないこと、しかしペッティングはOK(それが結婚前に愛を確かめる行動)というのが19世紀アメリカのロマンティックラブ)

を、ロマンティックラブの必要条件にしていることが分かります。純潔規範を伴っているからこそ、結婚前の交際のさいに、相手の「人格」を尊重し、敬愛するという関係へと水路づけられており、それがロマンティックラブの特徴である、と。

ロマンティックラブとは、ただたんに「恋愛—結婚―性を一人の人とすべし」とか、「この順番(恋愛→結婚→性)でやらないといけない」という規範であるだけでなく、そのような規範によって、互いに相手の人格を崇拝し合い、それによって人格の価値を高めあうという、宗教的な次元に半分入り込むような情熱を伴っているもののことを指しているのだなぁということが分かります。

・日本の大正時代の恋愛至上主義という理念の確立期にも、夫婦の「人格」の対等性や、人間としての成長、夫婦生活における「人格形成」といったことが、教養主義的文化のなかで強調されたが、それは「師弟」や「兄妹」のような関係と表現されることにも見られるように、必ずしも情熱恋愛ではなかった。それゆえ、ノッターさんはこれを「教養型男女交際」(p.76)と名づけています。

 

『エヴァ』は身も心も一つになることを称揚している作品なのでは:エヴァ解釈についての補足

エヴァ解釈の話。 ytakahashi0505.hatenablog.com

 私は前回のエントリーで、「人類補完計画は、人類の融合と性的「融合」(セックスのこと)を重ね合わせて表象されているが、主人公のシンジにはその誘惑をふりはらうことが期待されていた。ミサト、リツコ周りの性描写を見ても、肉体を伴った性愛は批判的に描かれているように見える」という主旨のことを論じました。

しかし、この記事を読んでくださった人とこの間、喋っていたら、『エヴァ』という作品においてはもう少し、性に関して含みがあるのでは、ということが分かってきました。私はエヴァの性をめぐる態度を、性の肯定/否定という二項対立で捉えていたのだが、次のような三項関係で整理することもできる。

  1. 身体を失った上で精神的な融合を果たす人類補完計画——プラトニックな融合、身体なしの精神の融合
  2. 身体としての境界と精神としての境界をもつ人間の、性愛的融合——「身も心も一つになる」ということ
  3. 食べるというかたちでの身体的融合・同化——使徒を食べるエヴァ、精神的融合なしの肉体の融合

で、シンジに求められていたのは、身体の境界線を失って融合するという男たちが望む人類補完計画(1)でも、ユイが臆せずやるような「使徒のS2器官を取り込むために食べる」という肉体的融合のあり方(3)でもなくて、身体と精神の境界を備えた人間の性愛を肯定していくということだったのではないか、と。うん、たしかに。

身体としての個の境界があるがゆえに、相手と身体的にふれあうということや相手に抱かれるということがもたらす固有の快楽みたいなものがあり、それは「人類補完」をしてしまうと失われるものである。また、抱く抱かれるみたいな快楽は、食べる快楽とは違っている。

(抱く抱かれるの話で言うと、どこかで使徒エヴァを抱こうとするシーンがあったよね。で、一瞬何をされるのかわからなくて攻撃が遅れる、みたいな。レイを抱き込んで自爆しようとする第23話の使徒の話ではなくて、アスカの弐号機を包み込むみたいな使徒いなかったっけ。私の妄想かな。使徒は知恵の実食べてないから、精神的な「個」の概念がないので、抱かないか?→追記:旧劇場版で量産機のエヴァがアスカ弐号機を最初抱こうとし、その後、弐号機を捕食だったような気がしてきた)

 

使徒的な融合と、人類補完的な融合を描き込んでいる『エヴァ』という作品は、身体融合なき精神の融合(人類補完計画)も、精神の融合なき身体の融合(使徒のあり方)をも「悪」とし、身体と精神の個を備えた人間の性愛のあり方をいとおしいものとして描いたものだったのではないか、といえる。その意味で、オタクコンテンツの代表的一例であるエヴァは、肉体を伴う性的なものを「汚れた」「穢れた」ものとして位置づけているというよりも、最終的に肉体を伴う精神的な融合としての性愛を称揚しているのではないかと読解することもできる。……なるほど!!

  • この方向で解釈するとすれば、ミサトと加持の関係や、リツコとゲンドウの関係といった29歳の人たちの現実の性愛が少しネガティブに描かれているのが気になるが、このような現実に成り立っている「身も心も一つに」とは異なる、もう少し理想化された「身も心も一つに」が称揚されているのだということになるのだと思う(それが具体的にどのようなものかは、作中では明記されていないが、それは人類補完した後の新たな人類の形が描かれないのと同じことだろう)。

というわけで、ロマンティックなものに付き合ってくれる優秀な人と喋るのは楽しい。以上、備忘録でした。

 

後期近代における恋愛論の重要性1

1.

個人の「自由」の拡大が共有された社会的な「善」になっている現代において、恋愛や性といった「個人的なもの」をめぐる議論は、ますます重要になっている。

再帰性が高まる後期近代論者のギデンズ、バウマン、ベックらが親密性や愛についての論考を書いたのはそのため。恋愛や性は、個人の自由の実質的な内容をなす一つのものとなっている。自由は社会的不介入によって成立するという、アメリカの保守主義者みたいな自由観をとらず、個人の自由は社会的に構成されているという自由観を取るならば、恋愛や性をめぐる自由については、社会的に議論していく必要がある。

 

恋愛や性は、ますます個人の自由にゆだねられる場になっているからこそ、社会的に議論していく必要がある。「性解放」以後、恋愛や性的関係の多様なあり方が許容されるようになり、選択肢が広がり、そのなかのどれを選択するかが個人にゆだねられるようになった。個人の選択肢は広がったのだが、恋愛や性に関する自分の欲求表出の仕方や、相手の人格をどう扱うのかは、道徳的な判断の対象であり続けている。つまり、恋愛や性の相手に対してどのような態度をとるかが、その人の「道徳性」や「人格に信頼できる人か否か」といったことを表すものとして位置づけられ、重要視されている。

 

だから、人々は「正しい」恋愛や性の関係のあり方を学び、自分の欲求との折り合いの付け方を模索し、実行しなければならない状況にある。そこでいう「正しさ」とは、社会的に成立している画一的な「正しさ」を身に着けるというよりは、自分にとって、最もっともしっくりする恋愛・性関係であり、かつそのような恋愛や性のあり方の正当性を他者に説明できるようなものという意味である。

恋愛や性は「内発的欲求とその充足」の問題であり、これは個人が自由を実現できているか(個人が自分の人生を謳歌できているか、やりたいことがやれているか)を自他が判断するさいの尺度のようなものになっている。それもあって、人々は恋愛と性の問題に取り組み、何かしらの選択をしていかざるをえないという状況に置かれている。

このような状況において、個々人が「自分はどのような恋愛・性関係を選ぶのか」を決めるための、恋愛・性をめぐる意味論の見取り図(整理)が求められているように思われる。いま恋愛論が必要なのは、そのため。

 

2.恋愛論:全体見取り図

恋愛や性が「道徳的(倫理的)判断」の対象になっているということを踏まえると、最低限、【1】社会的レベル:恋愛や性をめぐる社会規範や道徳的判断基準のあり方と、【2】個人的なレベル生存の美学(生き方の美学)の問題としての恋愛や性のあり方という、2つのレベルでの議論が必要。(もちろん両者はつながっているのだけれど、切り分けて整理しながら議論していくのが重要。)

さらに、いまの日本において恋愛論を展開するなら、以下のような3層構造で考える必要がありそうだなと私は思っています。

【1】社会的レベル:恋愛や性をめぐる社会規範や道徳的判断基準のあり方(その変化なども含めて) 

  • モテ」という言葉で可視化されている「人格の序列化」とでもいうべき事態について(非モテ論、自由恋愛市場が抱える問題点など)

【2】個人的なレベル:恋愛・性関係にコミットしている人たちにとっての恋愛や性のあり方

  • 友情と恋愛の間の多様性、ソフレ、セフレ、ポリアモリー、相手との多様な距離感のあり方(所有欲、排他性、嫉妬、束縛、傷つきの問題)、いま抱えている具体的な問題等々。

【3】リアルな相手との相互行為を基本としない恋愛感情のあり方

  • ロマンティズムの究極の形、バーチャルな恋愛、恋愛感情の商品化状況における売る側と買う側の論理

 

私の『フェミニズムはもういらない、と彼女は言うけれど』(高橋幸、2020)では、上記黒太字のテーマ(モテ、ソフレ)について扱っています。それらの個々のトピックを「後期近代日本における恋愛論」という枠組みで展開するとしたら、こういう感じに位置づくなぁと思いました。

 

3.具体的テーマについてのあれこれ

【1】社会的レベル:恋愛や性をめぐる社会規範や道徳的判断基準のあり方

最近、男性文化における「モテ」についての議論を読みまして、改めて「モテ」は社会的序列を構成する原理としてあるんだなという印象を強めました。

『モテないけど生きてます:苦悩する男たちの当事者研究』(2020、ぼくらの非モテ研究会) (→こちらについては今度きちんとレビューします。)

 

現代思想 「男性学」の現在:〈男〉というジェンダーのゆくえ」(2019年2月号)

 

 

拙著では、女性文化における「モテ」を扱っており、それまでの男性誌が使ってきたちょっと下品な「モテ」という言葉を、00年代に赤文字系ファッション誌(保守的な志向を持つ)が使い始めたということが面白く、そのガツガツ感と女らしいお上品さを両立させて「いい結婚」を目指すというあり方を、ポストフェミニズムの潮流の一つとして論じています。あと、補論では「モテ」に取りつかれることの問題性を論じています。

けど、それとはまた少し別の位相で「モテ」論を深めることができるな、と気づかせてもらいました。すなわち、現代において「モテ」は人格ランキングみたいになっていることや、モテ度が人格的承認の尺度として用いられているというあたりについて考えるのが重要。(一見そう受け取られているが、モテや非モテと言われているものをちゃんと分解して分析していったら、人格ランキングみたいな見方が相対化できそうな感じがしている。)

山田昌弘さんの『モテる構造』はこのあたりをやろうとしたことだと思うのですが、恋愛や性の原理を用いた社会秩序がどう構成されているのかについては、あともう一歩くらい進められそうな気がしています(今後頑張る)。私がやりたいのは「モテ構造」ではなく、「モテ構造」。モテという原理によってどのように社会構造が形成されているのか。

『モテる構造: 男と女の社会学』(山田昌弘、2016、ちくま新書

 

【2】個人的なレベル:恋愛・性関係にコミットしている人たちにとっての恋愛や性のあり方

【2】として、例えば『さよなら、俺たち』(2020)の清田隆之さんなどがされているお仕事のあたりがあります。ジェンダー論系研究会に来ている男性が、こちらの本について好意的に言及している場面に数回、私は出くわしました。評価されております~。

 

それから、【1】と【2】の中間レベルの話として、例えば、ホリィ・センさんの「サークルクラッシュ」に関する研究があります(この間、編集者さんに教えてもらいました)。サークルくらいの小~中規模集団における恋愛・性的関係のダイナミズムの話、面白いです。

nikkan-spa.jp

上記の記事は『SPA!』の男性読者向けに調整して書かれているということを勘案した上で、好意的に解釈するということにさせてください(そもそも、クラッシャーとされる女性を「悪」っぽく捉えてしまう構図を再生産するのはどうなんだとか、そういうフェミ的批判を優先してしまうと色々なものが読めなくなっていきます。ですから、私は、ある論考を読むときには、そこから学べる点を「読む」ことが重要だと考えています。これは私の信念です)。

というふうに、いちおう前置きをしたうえで自由に喋りますが(それでもあまり別に論調は変わらないけれども)、私はサークルクラッシャーと呼ばれている女の子の方の生きづらさがすごい気になった。たぶん、そっちの視点からの研究もなされているのではないかと予想している(この点を確認するには会誌を手に入れねば、かしら)。

いずれにしても、小集団における恋愛・性原理の機能の仕方というテーマから、深められる恋愛論というのもあるのではないかなと思いました。

  • 急に自分語りするけど、ちなみに私個人はですね、大学時代サークルというものに一つも入らず、見学?みたいなことにさえ一つも行かなかったので(なんか、当時そういうものを軽視していたところがあって…。なぜそういうイデオロギーを持っていたのかは今となっては全然思い出せないのだが)、サークルクラッシュもしなかったのですが、こういう形で男社会に入った女が排除されていく感+孤独感は「あるある」でよく分かる感じがする(「あるある」感が出る程度まで抽象化しつつ具体的な話が書けているところがこのエッセイのいいところです。)
  • さらに自分語りするけど、私は仕事関係に恋愛や性関連のもつれは絶対に持ち込まないと決めており(なんか大学院に進学した22歳くらいの頃にすでに、恋愛・性関連のこういうめんどくささがあるということを悟っており、その時はそれは脇に置いておこうと決めていたのよね)、したがって東大という男社会においても、この形の人間関係クラッシュは起こしていないので…笑、私にとっては安心して言及できる話題です、これ。(さらにグダグダ書くと、恋愛は「関係」なので「もつれはもちこまない」と決意して実行できるものではない。意図せずして巻き込まれたりということが往々にして起こるし、自分一人の問題として見たとしても、感情がそんなに思い通りに動くこともないわけで。そのあたりこそが恋愛の面白いところなのですが。)

 

そして、今、私は【3】に関して調べているところ。テーマとしては色々あって、色々考えてはいるんだけど、一つ具体的には「新海誠のロマンティシズムって、ドイツロマン主義やそれを輸入しながら発展した日本の浪漫主義とどう同じで違うのか」ということを調べていたりします。ご存じのようにロマン主義はドイツでも日本でも保守主義→政治美学・ファシズムへと回収されていく流れがあり、それに対する批判もたくさんなされてきたわけで、それらを踏まえた上でなお現代のロマンティシズムが擁護可能であるとすれば、それはどのような形で擁護し発展させていくことができるのかということを考えたいな、とか思っています。

  • 最初は、00年代の新海誠が書いてきた恋愛——日常に着地しない恋愛——って何なんだろうというようなゆるいことを思っていただけなんだけど、私が関心のあることをだーって調べていたら、こういう構造の議論になってきた。新海論、書くあてはないんだけど、まじめに書いたら1.5万字とかになると思う。
  • 現在の思想用語で、恋愛とか性とか「アイデンティティ」とか「承認欲求」とか「ナルシシズム」とか「自己愛」とかを論じていると、なぜかネガティブな批判に流れていってしまいがちなところがあるんだよなーと思っている。おそらく、もっとこのあたりの語彙を丁寧に分節化して議論していくのが重要。ということを、いまセカイ系論を書きながら改めて思っている次第。

 

以上。

次のエントリは、「後期近代における恋愛論の重要性2:社会学界隈を中心とした現代の恋愛論について」で、社会学界隈の恋愛論文のレビューを頑張る予定(たぶん)。

LAMP IN TERREN

最近のロックだったらLAMP IN TERRENがいいですって教えてもらっていたのだが、この数日しっかり聴き、それ以降、打たれてけっこう茫然自失している。
松本大が書く詩の特徴は、「キミ」が具体的な像を結ばないところにある。これは確信的にやっていると思う。異性愛か同性愛かフルイドか……という「違い」を乗り越えて誰もが聞けるものを目指すときに至る一つの道。ただ、松本大の場合、あまりキミに関心もない。
彼のポエジーの中心は、「たしかに強く感じていたはずの自分の気持ち」で、それを「どこかに落としてしまった」ということ。これを中心にしてぐるぐる回りながら、繰り返しこれを歌っている。その振り切れた感じが、いまっぽいというか新しいというかすごい。
「どこかに落とした気持ち」というのは『緑閃光』のワードだが、そういうわけで、私は、やはり一周して『緑閃光』が完成度も高くていいと思っている。
・まず、ギターリフが麻薬的。 このリズム感。
・次に、詩が良く構築できている。夕暮れのなかで「真実」とでもいうべき何かをつかむ自分と、その同じ風景を見ていたはずの何も語らない花という、夕暮れ、自分、花の三者の構図で、立体的に情景が描けている。(他の曲はここまで構築的ではないのもちょっと気になっている)
・もっとも衝撃的なのは、神隠しが起こるあやしい夕暮れ時を詠う詩は死ぬほどたくさんあるが、いったいだれがこんな夕暮れのポエジーを歌ったことがあっただろうかということ。
松本大が夕暮れの中でつかんだのは、「僕だけが見る風景」で、でもそれは「夕暮れが連れ去ってしまっ」ている。それは、「喜怒哀楽は大抵 眠れば忘れることを知っている」のと同じようなもので、「この目が醒めてしまえば もう昨日は遠くなってしまっていた」のと同じようなもの。
ここには「どうせ戻れやしない」し、僕は「同じ場所に居続けることもできない」というあきらめが基調にある。
あきらめが基調なのだが、その失った気持ちを「見つけられなかったとしても 紡いでいくしかないだろう」という覚悟があり、しかも「見つけられたとしても 満たされるわけじゃないだろう」ということもわかっているというところが、いまのティーンスピリットっぽいかんじがしませんか!
とくにウツっぽさが、グランジの復活とビリー・アイリッシュがくるいまっぽいよねみたいな、すごいざっくりした感じなんですが。
すでに失われたなにかを歌うのだが、ノスタルジーというには、期間が短い。一日単位だったり、ついさっきまでたしかに感じていたはずのものだったりする。でも、これはなんかよくわかるポエジー(詩情)でもある。
とうせもう 見えるものは偶然でしかないだろ 
だからもうあがくこともないよ 
 
どこかに落とした気持ち 夕暮れが連れ去ったとしても 
いつか同じように 何度も何度でも見つけてみせるよ
 
見つけられなかったとしても 紡いでいくしかないだろう
見つけられたとしても 満たされるわけじゃないだろう
LAMP IN TERREN『緑閃光』) 
 

youtu.be

以上、私は新しく出てくるロックバンドにはティーンスピリットを求めてしまうところがあり、私の中での"the" teen spiritは、「未完成だけど曲の疾走感でどこまでも走り抜けられる」みたいな、BUMPの『天体観測』みたいなものだったのだが、『緑閃光』はすでに失ってしまったものを甘美に歌うティーンスピリットで、ちょっと衝撃を受けているという話でした。

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