ポストフェミニズムに関するブログ

ポストフェミニズムに関する基礎文献を紹介するブログ。時々(とくに大学の授業期間中は)ポスフェミに関する話題を書き綴ったり、高橋幸の研究ノート=備忘録になったりもします。『フェミニズムはもういらない、と彼女は言うけれど :ポストフェミニズムと「女らしさ」のゆくえ』(晃洋書房、2020)、発売中。

「ポストフェミニズム」と言うことの認識利得

(*単行本用の原稿として書いていたものですが、どこにも入らなくなってしまったので、ここにアップします。紙に印刷して本の形態で読む用の原稿であり、ブログ用の文体じゃないので、若干読みづらいかもですが、すいません)

 

 「ポスト(post)」とは、基本的には「後の(after)」という意味だが、「ポストモダン」や「ポストコロニアリズム」といった用法に見られるように、モダン(近代)やコロニアリズム植民地主義)が「終わった」ことを意味するというよりも、それらが新しい権力関係や資本、メディア、技術の中で、新しい段階に至ったことを指し示すものである。

 

 カルチュラルスタディーズの大家スチュアート・ホールは、抹消記号としての「ポスト」を論じ、「脱構築は、諸概念が脱構築された形式で採用されるときに限り、現在を考えるための唯一の概念的道具、つまり手段として、それらの概念を維持しておくのである」(ホール)としている。ポストコロニアリズムというパースペクティブを取ることで、植民地支配が形を変えて行われているという議論が可能になる。

 

 このことを踏まえれば、ポストフェミニズムというパースペクティブをとることで、第二波フェミニズムの議論を踏まえながら、変化した新しい社会状況において、いまでも有効なフェミニズムの主張と、限界を迎えた点とを精査しながら、議論をさらに進めていくことができると期待できる。

 

 筆者は、とくに「性別役割批判」の可能性と限界という点に関心がある。第二波フェミニズムの性別役割分業批判が始まったのは、第二次産業を主要産業とする資本主義と福祉国家体制が確立した時期だった。「男は外で賃金労働、女は家の中で家事育児介護という再生産労働」という分業に基づいた家族が、この資本主義-福祉国家体制を支えていた。そのため、性別役割批判は、クリティカルな資本主義-福祉国家体制批判になりえた。

 それに対して、第三次産業が主要産業となった資本主義は、ジェンダーに基づいた労働力管理よりも、男女に限らず短期契約で柔軟に(flexible)使える労働力を必要とするようになった。また、グローバル化の進展で福祉国家体制も切り崩されつつある。このような新自由主義体制のもとでは、第二波フェミニズムが行っていた性別役割批判の意味も変わってくることになる。例えば、性別役割を批判して、女性の労働力化を推し進めることは、新自由主義が要求する「柔軟な」(すなわち短期契約の不安定雇用)労働力化と共振し、推し進めてしまう役割を果たすことにもなりうる。

 

ポストフェミニズムというパースペクティブをとることで、福祉国家体制から新自由主義体制へという新しい社会の変化のなかでのフェミニズムの主張の意味合いの変化を捉えることができる。

 

ちなみに、フェミニズム文学研究者の竹村和子は、2000年代の初頭に、ポストコロニアリズムに対する深い造形に基づいて、 「 “ポスト” フェミニズム」を提起していた(竹村2003)。当時日本はフェミニズムに対するバックラッシュの真っ最中だったこともあり、この提起が広い裾野を獲得したとは言いがたい。だが、フェミニズムに対するバックラッシュがさしあたり一段落つき、そして他文化圏と同様にその後、ジェンダー意識の「保守化」傾向が見られる現在こそ、ポストフェミニズムについての議論を深めていく必要がある。

 

ポストフェミニズムに着目する理由

 ポストフェミニズムは、とくに「女性のフェミニズム離れ」を主要な特徴とする。集合的アイデンティティの観点から単純に考えれば、女性の社会的権利を主張し要求する運動に女性が反対する理由はない。社会における経済的、文化的資源や地位権力などが男女に不均等に配分されていることの是正を求めることは、「女性」という集合的アイデンティティを持つ者にメリットをもたらす。

 

 にもかかわらず、女性がフェミニズムに反対するという態度をとるとすれば、これは、男性という社会的アイデンティティをもつ者が、フェミニズムに反対することとは性質が異なる。女性によるフェミニズム批判やフェミニズムからの距離化は、ただたんに「バックラッシュ」の一環や「アンチフェミニズム」の一種といって済ませられる問題ではない。これまで論じられてきたアンチフェミニズムの枠組みでは捉えきれない問題である。

 

 また、フェミニズムに反対する女性を、女性による女性性憎悪(ミソジニー)だと批判して済む話でもなさそうだ。フェミニズムから距離を取る女性たちの一類型として、恋愛に積極的で「女らしさ」や「女性性」を強調し、その享受を主張するというものがある。彼女たちに言わせれば、フェミニズムの方が、「女性性」から脱出しようとし、「女性性」を否定しようとする、女性憎悪に駆られた人々だということになる。

 

 女性という社会的アイデンティティを持つ人々の、フェミニズムから距離を取る態度に焦点を絞って検討していくことで、バックラッシュの複雑な様相を捉えることができるだろう。この基礎的な考察を踏まえて、バックラッシュ後の現在の新しいジェンダー編成を捉えていく必要がある。

 

ポストフェミニズムというパースペクティブ

 ポストフェミニズムというパースペクティブ(分析視角)をとることで、福祉国家国民国家主義)体制からグローバル規模で進む新自由主義体制へという時代的社会的変化を踏まえたうえで、第二波フェミニズムの主張のうち現在でも有効な議論と限界を迎えた主張とを精査して、今後の継承につなげていくことができるようになる。この方向の研究として位置づけることのできる日本の研究として、菊地夏野(2019)がある。

 

 また、高度資本主義においては、抵抗カルチャーとして登場したものが速いスピードで資本に取り込まれ、大衆化していくというサイクルが見られる(ストリートカルチャーとしてのヒップホップ、ラッブ、スケボー、ロックミュージック、インディーズバンド文化などがその典型)。いまやアンダーグラウンドカルチャーやサブカルチャーハイカルチャー、主流文化の区別は成り立たない。抵抗カルチャーとして登場したフェミニズム原理もまた、すでに主流(マジョリティの)文化に吸収されつつあり、もはや主流文化対フェミニズム文化という構図では、捉えられないような文化状況になっている。例えば、90年代のアメリカ10代少女向けファッション誌界を分析したBudgeon and Currie(1995)は、主流文化の『セブンティーン』にもかなりの程度のフェミニズム的なメッセージが見られるようになっており、もはや「セブンティーン対ステイシー」というような分かりやすい構図では捉えられなくなっていることを指摘している。

 

 このような文化状況を捉えるには、フェミニズムを支持する女性対アンチフェミニズムの女性という枠組みではなく、フェミニズム原理に基づく主張の意味合いが時代の変化のなかでどのように変化してきたのかを問題にするポストフェミニズムという枠組みが必要である。この方向の研究として位置づけることのできる日本の研究として、田中東子(2012)がある。(また、フェミニズム原理の浸透という文化状況の中で、なぜか執拗に「フェミニスト」に対する敵対的感情だけが残り続けるのもポストフェミニズム状況の特徴であり、探求すべき興味深い課題であると考えられる。)

 

 最後に、「第三派フェミニズム」ではなく、「ポストフェミニズム」という分析視点をとることの利点は、フェミニズムに加担する/しないというイデオロギー上の決断主義に陥らずに、ジェンダーセクシュアリティ秩序の社会学的分析をすることが可能になるという点にある。第二波フェミニズムが「女性」の連帯を強調するあまり、白人異性愛主義女性のイデオロギーと運動という傾向を持ったことに対する反省的視線を持つ第三派は、それゆえ、かなりの多様性を備えている。運動の多様性そのものは歓迎すべきことであるが、社会学的な理論的営為としてみたとき、第三派フェミニズム全体を扱うことは不可能に近い。若い女性のフェミニズムに対する態度に焦点を絞って、現代のジェンダー編成を捉えていくことが、理論的には有効な方法であると考えられる。

 

 

 

フェミニズム原理の日本社会への浸透

例によって、或る原稿のために書いた文章ですが、全面カットすることにしたので、ここに掲載させてください。どこかで今後使う可能性もあるので、ここ間違っているよ、とか、ここの論理展開が変ではというのがあったら、指摘してもらえるとありがたいです。

 

序章 バックラッシュ以後のフェミニズムとポストフェミニズム

1.フェミニズム原理の社会への浸透

1.1 

 フェミニズムには、大きく分けて、第一波フェミニズムと第二波フェミニズムがある[1]。第二波フェミニズムは、日本において1970年代から存在感を持ち始めた。そして、これ以降、「男女平等」な社会が公正な望ましい社会であるというフェミニズムが推し進めてきた原理は、少しずつ社会に浸透してきた。現在、男女差別や人種差別、いじめなどに反対し、それを改善するための行動をすることが社会的に望ましい、道徳的な態度と見なされるようになっている。フェミニズム原理(feminism principle)は、社会道徳の一つとなり、「社会」を批判する足場となっているといえる。

 だが、奇妙なことに、男女平等という理念は肯定するが、フェミニストフェミニズムという語に対しては拒否したりそこから距離を取ろうとしたりする行動が頻繁に見られる[2]。「フェミニズム原理」が広く薄く浸透していく社会で、「フェミニスト」が忌み嫌われ避けられるさまは、フェミニストはあたかも人身御供かのようだ。

 では、(なぜこのような事態になったのか。)日本の1970年代以降の日本でのフェミニズムの社会的あり方、どのように社会に受容されてきたのかについて概観してみよう。

 ちなみに、以下では「フェミニズム」と「フェミニズム原理」という言葉を区別して用いる。「フェミニズム原理」と言ったときには、広く社会的に受け入れられている「男女平等な社会が望ましい」という考え方のことである。

 

 1970年代から1980年代前半までフェミニズム原理を社会に浸透させる機能を担ってきたのは女性運動(Women’s Liberation)であった。「ぐるーぷ闘うおんな」や「中絶禁止法に反対しピル解禁を要求する女性解放連合中ピ連)」、「国際婦人年をきっかけとして行動を起こす女たちの会」などをはじめとする多くの女性運動が生まれ、大きな波となる。「個人的なことは政治的なこと(The personal is political)」を合言葉に、女性当事者の声を吸い上げて社会に問題提起し、社会的・政治的なものの領域を巻き込んだ議論を喚起していった。一方、この時期のマスコミは、女性運動を嘲笑しながら取り上げるという態度をとっている(江原[1981]2009)。

 1980年代中盤以降になると、放送・マスコミ業界の女性社員に支えられながら、フェミニストの学者、ジャーナリスト、小説家などがマスコミやジャーナリズムを通して活躍し始める[3]。マスコミを通したフェミニズム原理の浸透が始まった。消費と資本の論理で動くマスコミを媒介とするがゆえに、女性運動を媒介とする場合とは異なる――その意味で「歪んだ」――形で、女性が注目され、主題化され、議論の対象となっていった。例えば、視聴率や購買部数を稼げるネタとして、性的に解放された若い女性たちに注目が集まり、80年代の「大学生ブーム」、90年代の「女子高生ブーム(コギャルブーム)」が起き、「ブルセラ」「援助交際」が話題となった。また、経済力をつけた女性の生産・消費活動が主題化され、新自由主義政策と共振するフェミニズム――女性の社会進出(労働力化)や、消費主体としての新しい女性のあり方を論じるフェミニズム――が相対的に流通しやすくなった。

 マスコミを媒介としたフェミニズム原理の伝達は、若い女性のセクシュアリティと経済力に人々の注目が偏向することを対価としたが、着実に薄く広くフェミニズム原理が広まっていく下地を作っていった。

 1990年代中盤以降は、テレビ、映画、マンガ・アニメ、小説、音楽などのポップカルチャーフェミニズム原理を社会に浸透させる機能を果たすようになっていく。テレビドラマではキャリアウーマン表象が増え、性的に積極的な女性像の登場が話題になったりもした(『東京ラブストーリー』(ドラマ放映1991)、90年代論文引用挿入)。アニメ、マンガ、ラノベでは、自らメインで戦闘する戦闘美少女ものが、オタクの壁を越えて一般化する。これらの、フェミニズム原理と齟齬しない新しい女性像を描いたポップカルチャー生産-消費形態は、マスコミやジャーナリズムによる「女性性」消費とは異なっている[4]。そこで、これを「ポップカルチャーによるフェミニズム」と呼称することにしよう(本稿がポップカルチャーによるフェミニズムを重視しているのは、このような枠組みで捉えているからだ[5]。今後さらなる、ポピュラーカルチャーによるフェミニズムについての研究が必要である)。

 

1.2 フェミニズムの浸透による社会的道徳(「社会的に共有された価値」)のゆらぎ

 だが、このように社会のなかでのフェミニズムの存在感が増していく中で、フェミニズムは良くも悪くも人々の激しい感情的反応を引き起こしてきた。その理由は、第一にフェミニズムが人々の間に分断をもたらしたからであり、第二にフェミニズムが人々の道徳意識や社会全体で共有されていると考えられてきた価値や規範を揺さぶり、変化させるようなものだったからであると考えられる。

 

旧世代男性/新世代男性の分断:「おたく(オタク)」や「新人類」はフェミニズム原理を彼らなりに吸収して新しい世代意識を形成している

 フェミニズムはそれを支持する志向を持つ女性と、それに反対する志向を持つ女性との間の対立を引き起こしてきたことは、良く知られている(Bush 2007)。ただ、フェミニズムの社会への浸透によって分断されたのは、女性たちだけではない。男性たちもまた激しく分断されてきた。

 

 かつて男性フェミニストとは、俗に「女に甘い男」という意味になりえた[6]という事態は、男性内の分断があったことを明示するものだ。〈男/女〉と〈友/敵〉の二項対立を前提とした「男の味方/女の味方=男の敵」の世界観のもと、女の味方をする男性は男性を裏切る存在であり、自分だけ女に好かれようとする抜け駆け男だという判断形式があったのだ。

 1980年代に開花したオタク文化についての諸研究(大塚・ササキバラ2001, ササキバラ2004)に見られるように、1950年代末~1960年代生まれの新しい世代の男性たちは、1980年代に自らを「新人類」や「オタク(おたく)」と呼びながら、古い世代とは異なる世代意識(アイデンティティ)を確立していった。バブルの消費社会に適応した「新人類」と、それを横目で見ながらルサンチマンを抱えつつオタク的教養に没入した「オタク」は異なる存在だったとされているが(大塚 2004)、現在ではこの世代をひとまとめにして「オタク第一世代」ということが多い(東 2001)。重要なのは、「新人類」も「オタク」も、彼らが年長世代の男性(「おやじ」)とは異なる新しい世代意識を形成したという点で共通しており、そのさいにフェミニズム原理が取り込まれているという点である。ササキバラ(2004)は、「女性と見ればセクハラするような年長世代に抗して新たな世代意識‥‥」ということを論じている。

 オタク第一世代は、10代で直面したフェミニズムの衝撃を彼らなりに受け止めようとした最初の世代でもある[7]大塚英志(1958-)や宮台真司(1959-)に顕著に見られるように、彼らは少女マンガを読んで少女の内面を理解しようとし、高度消費社会を軽やかに生きる新しい主体として少女的主体を称揚した(大塚 [1989]2001, [1989]1997, [1991]1995, 宮台 [1994]1994, 1995)。大塚英志は「少女フェミニズム」という概念も提起している(大塚 [2001]2004)。高度消費社会を迎えた80年代日本の、新しい男性/古い男性という分断線を補強するものとしてフェミニズムが男性において機能していたことがわかる[8]

 

社会的規範や共有された価値の動揺:女子大生ブーム、コギャル、援交

 フェミニズムの社会への浸透は、オタクに限らず、より広い範囲の人々に影響を及ぼした。フェミニズム原理が社会に広まることで、家庭や恋愛・性愛関係といった個人的なものの領域(the personal)と職場などの社会的なものの領域(the social)の双方での変化が引き起こされた。恋愛や性愛の相手である夫婦関係や恋人関係において、それまで男性側が当然の権利と思っていたことに対する妻・恋人からの拒否・否定反応が示されるようになり、性別役割意識の再考を迫られるようになる。性愛という個人的な欲望と欲求に関連する相手からの拒絶や主張に対しては、個人レベルでの主体的な対応や行動が避けられなくなる。

 職場でも、女性社員の増加とともに女性社員の扱いに関する明文化されたルールの変化や、慣習や常識レベルの変化が起こっていく。全体社会を見渡してみれば、性の自己決定の原理に基づく、若い女性たちの援助交際ブルセラといった新たな社会問題が浮上してくる。

 多様な勢力が集まってうねりとなった第二波フェミニズムの主張を一言で言うのは困難だが、多くのフェミニストに共有されていた主張は、男女間の対等な権力の分配に基づいた女性の自立化を目指すものであったと、さしあたり言うことができる。女性の自立化のため、具体的にはおもに、女性の経済的資源へのアクセス権(職業キャリアの追求の自由=経済的・政治的自由)と、性の自己決定権(性的自立性・自由)の獲得が目指された。女性の性の自己決定が可能になると、男女は共犯的に性的解放へと進んでいった。セフレという言葉が一般化されたのは1990年代である。これが1990年代までの顛末である。フェミニズムが意図したかどうかは別として、結果的に、フェミニズムが社会に浸透したことで、女性の社会進出と女性の性的解放が同時に進むことになった。この二つが同時に進行したことで、人々の公私を巻き込んだ日常生活の変化がもたらされ、人々の不安を誘発し、社会道徳が動揺しているという感覚を引き起こした。

 

 1980年代には日本でもポストモダニズム思想が思想界・論壇のモードとなるなか、社会的に共有された価値・規範が失われたという議論が力を持った。「大きな物語の喪失」(Lyotard, 1979=1986)という議論に実感レベルでの裏づけを与えたものの一つとして、フェミニズムの浸透による女性の変化、それへの対応を迫られた男性の変化と分断があったと考えることができる。90年代になると、猟奇的な少年犯罪や少女たちの売春の背景として、繰り返し「心の不透明化」や「内面の欠落」が語られた(鈴木2017)。これらの議論もまた、大きくは「共有された価値規範の動揺」、「社会秩序の危機」という社会的意識に連なるものである。

 以上のように、フェミニズムは、女性の社会的権利の問題、実質的な生活上での決定権の問題であっただけでなく、社会全体の道徳や価値規範の変化を引き起こすものとして捉えられてきたという側面がある。

 フェミニズムが社会道徳の動揺を引き起こすものとして捉えられたがゆえに、フェミニズムに反対する勢力(バックラッシュ派)は、道徳性・社会秩序、伝統の回復といった道徳性の主張を通してフェミニズムのバッシングを行っていくことになった。

 

 

 

[1] 第一波フェミニズムとは、19世紀の欧米で始まった。奴隷制度廃止運動(Abolitionism)や労働者の参政権等の獲得を主張する運動を背景に、女性の財産相続権や高等教育を受ける権利、女性の職業をガバネス(家庭教師)以外に広げること、参政権などを要求してきた運動である。これらの運動は少しずつ前進し、女性を含む「国民」の全面的協力を必要とした20世紀の2つの世界大戦を通して、参政権も獲得されるに至った。

第二波フェミニズムというのは、第二次世界大戦後に生まれたベビーブーマー世代による1960年代のカウンターカルチャー(抵抗文化、社会を支配する権力に抵抗し、自由を追求。)のうねりの中で生じた。第二波フェミニズムは、日常生活における実質的な男女不平等があることを指摘し、人々の意識の内で暗黙の了解となっていた「性別役割」意識が、日常生活の男女不平等を再生産していることを告発していく。

[2] 例えば、Boxer(1997)のニューヨークタイムスの記事によれば、1997年のCBSニュースの世論調査において、すべての年齢の女性の3/4が「女性の地位は過去の25年間に改善した」と答えたが、「自らをフェミニストである」としたのはおよそ1/3であった。

[3] 江原由美子(1990:6-12)は、日本における女性学・フェミニズムの発展の時期区分として、次のようなものを提起している。1970年-1977年まではリブ運動の時代で、運動の側、活動家の側にフェミニズム論の主導権があった。1978年-1983年までは、婦人行政の変化を背景とする女性学創出期で、運動体、行政関係者、研究者のいずれも主導権をとれずに並びたった。1983年以降は有名人フェミニストによるフェミニズム論争の時代――「論を展開する際に、運動体名や層としての女に自己の論の正当性を求める(運動者がとるスタイル)のでなく、自己の論の受け手を学問世界に限定しその内部における評価を主要に追求する(研究者が通常取るスタイル)のでもなく、個人の名前でジャーナリズム等において社会評論等の活動を行うフェミニスト」(江原1990:12)によってリードされた論争が目立った時期――と整理している。

[4] 現在、ジェンダーの視点に立ったコンテンツ内容に関する分析――例えば、男性性/女性性がどのように表象されているのか等――や、オーディエンス研究――コンテンツがオーディエンスにどのように受容されているのか――のさらなる充実が必要とされている。多種多様多岐にわたるポピュラー・カルチャーを各領域、ジャンルをふまえながら詳細に把握するだけでなく、それを総合していくような視点も必要とされている。

[5] フェミニズム原理の社会への浸透機能を担った媒体の変化に基づいて、ウーマンリブが始まった1970年代からの日本のフェミニズムの流れを捉えるとき、70年代から80年代中盤までにそのプロトタイプが形成された「女性運動によるフェミニズム」、80年代中盤から90年代中盤までにそのプロトタイプが形成された「マスコミによるフェミニズム」、90年代中盤以降の「ポピュラーカルチャーによるフェミニズム」の3つに大きく分類することができる。2000年代以降のフェミニズムの展開は、この3つの理念型の組み合わせとバランスの変化による新たな編成として捉えることができる。2000年代後半以降には、SNS等を用いたインタラクティブなコミュニケーションの活発化のなか、新しい社会運動の編成が起こっており、フェミニズム原理の浸透機能における〈女性運動によるフェミニズム/マスコミを通したフェミニズム〉は新たな局面を迎えている。)

[6] 男女平等を求める若手フェミニストグループの「明日少女隊」が中心となって、岩波書店に対し、「広辞苑」の「フェミニスト」項の解説の修正を求めていた。2018年の第七版で、「①女性解放論者。女権拡張論者。②俗に、女に甘い男」(第六版)から、「①女性解放論者、女権拡張論者。②女に甘い男。女性尊重を説く男性」(第七版)に修正された。

[7] 男性学伊藤公雄(1951-)や細谷実(1957-)などのように、もっと早い段階でフェミニズムの衝撃を受け止めた人々はいたが、世代としてフェミニズムに向き合ったと言えるのは1950年代末から60年代生まれの男性たちである。

[8] ちなみに、女性文化現象を主軸にして世代分類する場合、1950年代末から60年代前半生まれは「アンノン族」である。

【人の論文紹介】伝統的男性役割(5側面)/新しい男性役割(4側面)の心理学的解明

本日の日本女性学会のMLでも、男性役割についての議論が回ってきていますね。

心理学は性別役割についてかなり長いこと(1960年代の英語圏で最初の盛りあがりを見せた)、細かく分節化し、経験的に測定して、議論してきているので、もっとここらへんの知見を社会学及びジェンダー論一般も取り入れると、議論がより充実するのではないかと思っています。そこで、以下の論文を紹介。

 

渡邊寛, 2017, 「多様化する男性役割の構造:伝統的な男性役割と新しい男性役割を特徴づける 4 領域の提示」『心理学評論』Vol. 60, No. 2: 117–139. (=https://www.jstage.jst.go.jp/article/sjpr/60/2/60_117/_pdf)の紹介

 

男性性については、英語圏、日本語圏で、研究されてきている(どの範囲のどの資料をカウントしているのかについては本文をお読みください)。

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渡邊(2017:119)

 

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渡邊(2017:120)

日本では、2000年代に「男性性」研究が盛り上がったが、2010年代にはむしろ伸びが鈍化している感がある。

 

これまでの性役割に関する心理学者が開発してきた尺度としてこれらがあり、

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渡邉(2017:122)

 その後、新しい男性役割についての研究も色々出てきている。

それらを分析・整理し、結論だけいうと、以下のように整理できる。

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渡邊(2017:134)

すばらしく良くまとまった論文。

社会学者のみなさん、このような心理学の研究をたくさん引用して、男性役割研究をともに進めていきましょうー(・ω・)ノノ

 

 

 

フェミニズム・バックラッシュの歴史まとめ2

(2)人工妊娠中絶反対運動

 アメリカでは、1960年代後半から、アメリカ合衆国憲法修正第14条を根拠とする女性の「プライバシーの権利」に基づいた中絶合法化を目指す運動がみられるようになった。1970年には妊娠中の未婚女性ジェーン・ロウ(Jane Roe[1]らが原告となって、妊娠中絶手術を禁止したテキサス州法を違憲であるとして訴訟を起こす。1973年に、最高裁は人工妊娠中絶を規制するアメリカ国内法の大部分を違憲無効とし、「初期三カ月の中絶」をプライバシー権に基づいて認める判決を下した(通称「ロウ判決」)。

 

 これをきっかけに、保守派のバックラッシュが始まる。カトリック教会が全面的にバックアップしたアメリカ国内最大規模のプロライフ(pro-life)団体National Right to Life Committee(NRLC、カトリック教会のジェームズ・マクヒュー神父により結成、1973年に本格的に反中絶ロビー活動を開始)や憲法修正を目的とする生命尊重憲法修正政治活動委員会(LAPAC、1973年結成)、Christian Action Council(1975年結成、1999年に「Care Net」と改名し現在も妊婦支援活動を行っている[2])などが活動を活発化させていく。プロライフ派フェミニストNGOであるFeminists for Life of America(FFL)も1972年に結成されている。

 

 州権(state’s right)を重視する保守派・プロライフ派は、州・地方自治体レベルでの州法・市条例等の成立を通して、具体的な成果を積み重ねていった。ロウ判決後の4か月間だけでも、各州議会には200近い中絶関連法案が提出され、ロウ判決では明らかでなかった部分を狙って、さまざまな規制(夫の同意書や未成年者の場合の親の同意書の義務化、中絶を希望する女性に24時間の再考機関を義務付ける、カウンセリングの名のもとに胎児の発達段階についての詳しい説明をする、報告や記録を残すことの義務付けなど)を課していった(荻野2001:99)。

 

 連邦議会レベルでもロウ判決の覆しが試みられた。まず、ロウ判決直後から、「中絶問題の法的取り扱いに関して州政府の広範な裁量を認める州権修正案(States’ Rights Amendment)」や、「胎児の権利に実体的な保障を与えようとする人間の生命修正案(Human Life Amendment)」などの憲法修正案が連邦議会に提出された。その数は1974年初頭の時点で58と報告されている(黒澤2010:56)。だが、「カトリック司教や一部のプロライフ運動団体の強硬な姿勢は、多くの上院議員の反発を招く結果となり」、上院司法小委員会(Senate Judiciary Subcommittee)を通過せず、1976年には棚上げが決定された(黒澤2010:57)。プロライフ派は、数多くの憲法修正案の提出を行ったが、実際の審議に付されることがない状態が続き、この点では苦戦している。

 

 ただし、連邦の低所得者向けの医療補助であるメディケイドを妊娠中絶に使用することを禁止する法案(ハイド修正案Hyde Amendment)は1976年に成立し、「これによって、貧困のためにメディケイドを受けている女性は、実質的に中絶を行うことが不可能となった」(大津留1991:148-9)。「中絶反対派の議員たちは、たとえ補助がなければ貧しい女性には中絶の費用が支払えないとしても、彼女たちの『不都合な』妊娠のつけを納税者に回すのは正しくないという議論を展開し、人々の間にある『大きな政府』や福祉政策に対する不満や反感に訴えた」(荻野2001:103)。その後、各州で同様のメディケイド停止の法律が成立していき、1979年末までに40州で制限が導入された(荻野2001:104)。

 

 連邦議会は、さらに公的資金助成制限を厳格化させていく。1977年の規定では「妊娠の継続が母親に深刻で長期的な身体的損傷を与えると2名の医師が判断する場合」は「例外扱い」とされ、中絶のための公的資金助成を受けて人工中絶できたが、1979年にはこの「例外扱い」が認められなくなる。さらに、1981年には「レイプや近親相姦による妊娠の場合」の例外扱いも認められなくなり、結局「生命の危険がある場合にしか」中絶が認められないことになった。「レイプや近親相姦による妊娠の場合」が、「例外扱い」として認められ、助成を受けられるようになったのは1993年である(黒澤2010:59)。これに対して、プロチョイス派は、政府援助を受けることができず、ヤミ堕胎を受けて死亡した27歳のロージイ・ヒメネスにちなんで「ロージイ基金」を設立し、貧しい女性の中絶費用を援助した。1975年から79年までの非合法堕胎の数は、5000から2万3000程度、堕胎が原因で死亡したのは17名、そのうち14名(82%)は、黒人とヒスパニック系である(荻野2001:105)。

 

 1970年代の反中絶運動の中心はカトリック教会だったが、70年代末頃からは、プロテスタント教会の中の原理主義派や福音教会派、モルモン協会などの宗教右翼(religious right)が運動に参入して勢力を伸ばし、1980年の大統領選では、妊娠中絶反対を明示した共和党レーガン[3]が勝つ。そして、80年代には中絶反対運動の暴力化が進んでいく。

 ベネディクト派修道士で戦闘的活動家として知られていたジョセフ・シャイドラ―のPro-Life Action League(PLAL、プロライフ行動連盟、のちにプロライフ行動ネットワークPLANに改称)や、地下テロ組織The Army of God(1982年に成立)、キリスト教原理主義保守団体Operation Rescue(OR、ランドール・テリーによって1988年に正式に組織として発足、主要メンバーは300人程度だが、全国の保守的なクリスチャンが献身的に運動に参加したため、草の根運動として大きなインパクトを持った)などの各地のプロライフ団体・組織による、戦闘的暴力的活動が頻発する。

 中絶クリニック入り口に大勢の人間が座り込んでクリニックを封鎖するピケ、中絶クリニックにやってくる女性の説得や妨害(「歩道カウンセリング」と呼ばれ、祈りを捧げたり賛美歌を歌ったりもした)、車のナンバーから患者の家を突き止めて付きまとう、近所や家族の間で患者の女性を非難して中絶したことを暴露する、クリニックに電話をかけ続けていつも話し中にし、患者が予約を取れないようにする、患者のふりをしてクリニックに入り、中で中絶反対の宣伝をする、クリニックの放火や爆破、クリニック医師・看護師・職員・ガードへの罵倒や嫌がらせ、スタッフの自宅にピケを張る、脅迫電話、殺人未遂、殺人、反中絶活動家の裁判を担当している裁判官への嫌がらせや脅迫、女性団体への暴力的攻撃などの戦闘的な反対運動が繰り広げられた[4](荻野:115, 118-119)。

 1986年の調査では、中絶を行っているクリニックや病院の47%(1250施設)が、85年末までに何らかの嫌がらせを受けた経験があると回答しており、85年中に中絶を受けた女性の83%が反中絶勢力からの脅威にさらされたことになる(荻野2001:116)。

 

 プロチョイス派[5]は、クリニックに入ろうとする女性をエスコートして嫌がらせから守ったり、ORに対する訴訟を起こしたりした。1986年にNOWはジョゼフ・シャイドラ―を相手取り、中絶クリニック前でのデモや座り込み、妨害活動の差し止め命令を求めて、シカゴ連邦地裁に民事の損害賠償請求訴訟を起こす。1994年にはクリントン政権下で、中絶クリニックを訪れる人の権利を保障するFACE法(Freedom of Access to Clinic Entrances Act、診療所訪問保障法)が成立し、1998年にはNOW対シャイドラー訴訟に関してシカゴ地裁がシャイドラーへの差し止め命令を出した。これによって、中絶クリニック前でのデモや封鎖は、法律上は中止に追い込まれることになったが(河野2006:100)、現在まで散発的なクリックへの攻撃は続いている[6]。ちなみに、1998年のシャイドラ―に対する判決は、ブッシュ政権下の2003年の連邦最高裁判決で覆り、シャイドラ―への差し止め命令も解除されている。

 

 プロライフ派の活動は原理主義的なグループによる中絶クリニックへのテロ行為という印象が強くあるが、プロライフ派の活動として、河野(2006:100-102)は、「プロライフ行動連盟」への取材に基づいて、プロライフ派が妊婦や子育て女性、子育て家族の支援や養子縁組の推進などの活動も行っていることを報告している。

 

 80年代のテレビ伝道師ジェリー・ファルウェルに代わって、90年代に影響力を誇るようになった南部バプティスト連盟の牧師(minister)でペンテコステ派聖霊派)のパット・ロバートソンは、クリスチャン・コアリションを1989年に創設し、宗教保守の政治的動員を成功させていった。フェミニズムバックラッシュに火をつけた、人工妊娠中絶問題は、1990年代以降も国論を二分する政治的論点となり続けている。

 

 

 

【注】

[1] これは、法廷での匿名性を確保するための名前である。のちに、彼女は「Jane Roeは私だ」として本名(ノーマ・マコービー、1947 - 2017)を明らかにし、人工中絶反対派に転じたことで、話題を集めた。

[2] 「Care Net」ホームページ「History」を参照( https://www.care-net.org/history )。2013年現在、北米に1100のaffiliated pregnancy centerを有する。

[3] イギリスのサッチャーレーガンと政策・思想上の共通点が多いが、サッチャーは人工中絶問題に関しては、無関心だった点が、レーガンとは異なっている。

イギリスでは、1967年に労働党下院議員の議員立法によって中絶が合法化され、アメリカと同様にその後、宗教保守運動による反対キャンペーンが高まった。しかし、「オールトン議員が議員立法で、中絶制限法案を提示、第二読会まで通過したが、この問題に関して冷淡・中立的なサッチャー内閣が本会議で審議時間の延長を拒否したため、審議未了で廃案になった」(:8)。イギリスでは、中絶問題に関する限り、両党とも、態度を留保し中立を保ったため、宗教保守団体は政党を活用することができなかった。「イギリスでは、アメリカのように中絶問題で最高裁が出る幕はなく、憲法に関わる問題と考えられたこともない。さらに国会以外での立法は不可能であり、イギリス中絶反対運動は少なくとも政治的には、ほとんど成果を上げられなかったと言える」(:8)。

[4] NAF発行の「2017 VIOLENCE AND DISRUPTION STATISTICS Reports」( https://prochoice.org/wp-content/uploads/2017-NAF-Violence-and-Disruption-Statistics.pdf 2019/04/29閲覧)によれば、77年から99年までの間に、中絶を提供するもの(abortion provider)に対する殺人7件、殺人未遂16件、破壊40件、放火160件、破壊行為(Vandalism)819件、嫌がらせの手紙や電話((Hate Mail/Harassing Calls)6519件、ピケ(Picketing)30784件が起こっている。封鎖という出来事が起こったクリニック(Clinic Blockades)は674カ所、逮捕者は33827人に及ぶ。

[5] プロチョイス派(中絶権保護)の主要団体として、NOW(National Organization for Women、全米女性機構)やNARAL(National Abortion Right Action League、妊娠中絶権擁護全国連盟)など。

[6]  前述のNAF発行データ(同上)でも確認できるように、これらの活動は2017年まで継続的に行われている。77年から2017年までの合計は、殺人11件、殺人未遂26件、爆破42件、放火187件、脅迫(Death Threats/Threats of Harm)607件。炭疽菌バイオテロリズム(Anthrax/Bioterrorism Threats)は2000年から2009年に大方が行われ、合計で663件。嫌がらせの手紙や電話(合計17,135件)やピケ(合計330,584件)も衰える様子がない。例えば、ピケは、2000-2009年に110,600 件、2010-2017に189,200件となっており、単純計算で一年あたり1万件以上のピケが起こっていることがわかる。

 

【文献】

河野博子, 2006, 『アメリカの原理主義集英社新書.

黒澤修一郎, 2010, 「Roe判決とバックラッシュ・テーゼ(2・完)」『北大法学論集』61(2): 605-646.

大津留智恵子, 1991, 「シングル ・イシュー政治の排他性:中絶をめぐる市民運動の性格」『アメリカ研究』25: 143-159.

フェミニズム・バックラッシュの歴史まとめ1

或る原稿のために書いた文章ですが、ざっくり全面カットすることにしたので、ここに掲載させてください(ウェブページで読む用の文体ではないので若干読みづらいところはあるのですが)。

のちほどどこかで使う可能性があるので、「ここの事実認識間違っているよ」等のご指摘がありましたら頂けるとありがたいです。

 

 

1. アメリカのバックラッシュ

 バックラッシュとは、ある観念や思想が一定の一般性(popularity)を得たあとに発生する、ある観念や思想に対する否定的、敵対的な反応(negative and/or hostile reaction)のことである。

 アメリカで起こった、フェミニズムの社会的浸透に対するバックラッシュ(揺り戻し、反動)は、大きく

 

(1)男女平等を憲法に盛り込むEqual Rights Amendment(アメリカ合衆国憲法平等権修正条項と訳されることが多い、以下ERAと表記)反対運動として、

 

(2)1973年のアメリカ合衆国最高裁判所の人工妊娠中絶の権利を認めた判決(ロウ対ウェイド(Roe v. Wade)事件判決)後の、人工妊娠中絶をめぐる議論と対立の深刻化として、

 

1970年代後半から1980年代に起こった

宗教保守・政治保守勢力は(1)(2)を、「家族」という価値と社会的道徳の基盤を揺さぶる脅威として受け止め、フェミニズムに対するバッシングを開始していった。

フェミニスト側は決して家族の価値を貶めようとしているわけではなく、保守派は決して女性の権利を踏みにじっても良いと考えているわけではない。同じ主題に対するフレーミングが異なっているために意見の対立と運動の激化がもたらされている。

 

(1)ERA反対運動

 1920年婦人参政権が成立したアメリカにおいて、次の女性運動の目標となったのがERAの成立だった。1923年に起草され、National Woman’s Party(NWP、全国婦人党、1913年結成、婦人参政権運動における戦闘派)のアリス・ポール(1885-1977)を中心に運動が続けられてきた。

 当初、ERAは女性労働者保護を不可能にしてしまうという理由で、多くの女性から反対されてきた。ソーシャル・フェミニストだけでなく、同じNWPに属しともに参政権運動を戦ってきたNWP重要メンバーのフローレンス・ケリーや労働省婦人局長メアリー・アンダーソンも、反対を表明していた(有賀1988:190)。

 しかし、1938年の公正労働基準法によって「それまでソーシャル・フェミニストたちが要求していた女性労働者のための保護立法が、男女両方の労働者を保護するための一般的な法として実現すると、それ以上の、女性だけを保護する法律はかえって女性差別の口実に使われるという議論も説得力を持つように」なっていく(有賀1988:193-194)。

 

 まず、専門職ホワイトカラーの女性組織――The National Federation of Business and Professional Women's clubs(NFBPWC、全国実業および専門職女性クラブ連合、37年に支持を表明)や、医者、弁護士、公務員などの有職婦人の組織(30年代に支持を表明)――、中産階級の主婦の最大組織婦人クラブ総連合(44年に支持を表明)などがERA支持を表明するようになる。

 だが、50年代に入ってもなお、女性労働者保護立法促進を目指す労働省婦人局や、National American Woman Suffrage Association(NAWSA、全国アメリ婦人参政権協会、婦人参政権運動における穏健派)の後身でありソーシャル・フェミニズムの色彩の強いLeague of Women Voters(LWV、婦人有権者同盟)、Women’s Trade Union League(WTUL、婦人労働組合連盟)は、ERA反対の立場を崩さなかった(有賀1988:193、兼子 2010:199-201)。

 

 その後、1963年に公民権運動の成果として平等賃金法(公民権法第7篇)が成立すると、1960年代後半に次々と生まれた新しい女性運動組織がERAを支持するようになる。

 また、「70年代頃になると、連邦裁判所も雇用機会平等委員会(EEOC)も、公民権法第7篇は従来の性別保護法を無効にするが、それは女性から伝統的保護を取り上げるのではなく男性にもそれを拡大する方向によってであると解釈するようになり、ここにようやくERAに対する長年の懸念が解消して、労働組合労働省、反対派の女性組織もERA支持に回ることとなった」(荻野2001:176)。

 1972年に両党の支持を得てERAが連邦議会で承認され、38州以上の批准が得られれば発行するまでに至った。73年はじめまでに24州が批准したが、この頃、女性の人工中絶の権利を認める最高裁の判決(詳細は後述)が出る(荻野2001:177)。1970年代後半には、バックラッシュ派によるERA反対運動が発生した。1977年にインディアナ州が35番目の批准州となったが、その後は続かず、1982年6月30日の批准期限までに規定数の38州に達しなかったため不成立となった。

 

 ERAは、第二波フェミニズムの高まりを背景に、多くの女性団体が一つの目標に向けてまとまったことで、ようやく連邦議会を通過したものであった。その意味で、ERAは、第二波フェミニズムウーマンリブの達成の象徴と見なされていたところがある。リベラルフェミニズムの代表的勢力のひとつであるNational Organization for Women(NOW、全米女性機構)や、80近くの組織からなる連盟(coalition)である「ERAmerica」は、精力的に推進活動を行い、批准期限延長のため1978年の7月にはWashington D.C.で、10万人のサポーターによるマーチを行っている[1]

 

 それに対する、ERA反対運動は、1974年に女性労働者保護を主張するソーシャル・フェミニストの組織American Federation of Labor and Congress of Industrial Organizations(AFL-CIO、アメリカ労働総同盟・産業別組合会議がERA支持派に加わった後は、保守的、右翼的な主張傾向を持つ団体によって展開されていく。

 

 アメリカにおいてニューライトと呼ばれる、キリスト教保守派が政治的に動員されて形成され勢力として可視化され始めたのが、1970年代だ。なかでも、ERA反対勢力を組織した代表的な人物として、保守系活動家のフィリス・シュラフリー(1924-2016)がいる[2]

 彼女は、1972年にEagle Forum[3]を創設し、STOP-ERAキャンペーンを始めた。「STOP」は、「Stop Taking Our Privileges(私達の特権を取り上げるな)」の頭文字で、ERAが成立すれば、夫による妻の扶養義務が廃止され、離婚しても扶養料や子どもの親権が認められなくなり、働きに出たくない女性まで子どもを保育所に預けて働きに出なければならなくなる。公共のトイレが男女共用となり、刑務所でも男女の区別がなくなり、女性もまた徴兵リストにリストアップされるようになる(アメリカの徴兵制が廃止されたのは、ベトナム戦争の和平協定締結後の1973年1月である)と、シュラフリーは警告した。

 また、ERAを始めとするフェミニズムの伸張は、人工妊娠中絶の権利を女性に認めることになり、「伝統的家族」ではない同性婚を増やすとして、多くの白人中産階級専業主婦たちの不安を煽って動員していった(Bystrom and Burrell 2019: 510-512)。「73年2月までに南部と中西部を中心に26州でERA反対運動が始まり、「STOP ERAニュース」の購読者は81年までに3万人にのぼった」とされている(荻野2001:180)。

 

 ほかにも、ERA反対運動勢力として、90年代にベストセラーとなる『レフト・ビハインド』シリーズ[4]の著者で福音派の牧師ティモシー・ラヘイ(1926-2016)の妻のBeverly LaHayeが1979年に創設した「Concerned Women for America(アメリカを憂える女性たち)」などもある。これら宗教保守、保守派は、フェミニズムを伝統的なジェンダー役割を混乱(disrupt)させるため、家族と子育てに対する脅威であると捉えていた。ちなみに、ERA支持派は1973年に、主婦たちによるHomemakers' Equal Rights Association (主婦平等権利協会)を結成している。

 さらに、1979年には、南部バプティスト連盟の牧師で、60年代末から70年代にカリスマ的なテレビ伝道師(televangelist)として人気を誇っていたジェリー・ファルウェル(1933-2007)が保守派圧力団体「モラル・マジョリティ」の指導者となり、精力的にERA反対運動を展開した。モラル・マジョリティは1980年のレーガン大統領選出、1984年の再選を支えた勢力でもある[5]

 1980年代の米レーガン政権、英サッチャー政権期に、道徳保守派によるバックラッシュは一層力をつけていく。性別役割を基本とする家族の価値を重視し、家族を基盤とする社会的道徳を重視する道徳保守的なイデオロギーアメリカではreligious conservativeやreligious right、Christian rightと呼ばれる)と、新自由主義的な経済政策とのアマルガムであるレーガン政権は、産業構造の転換、新自由主義政策による社会不安を、家族的価値、伝統的道徳の強化によって乗り切ろうとした。このなかで、フェミニズム-対-家族主義」という構図が作られていった

 

 穏健派リベラル・フェミニズムの最大勢力であるNOWは、当初、レズビアニズム・フォビアを隠そうともせず、またNOWに所属する黒人女性運動家たちが黒人運動を行うことに関してもERA達成の妨げになるとして、やめるよう要請するなどの動きをする。ERAを成立させるため、extremistを排し、穏健派の支持を広げることが運動の論理として必要だったからだ。

 だが、80年代のバックラッシュの激しさのなかで、NOWは、ERAと女性の人工中絶の権利、同性愛の権利を同列に支持するようになっていく。それによって、保守派はさらに「フェミニズムは家族の破壊をもたらす過激で危険な主張」であると認識するようになっていく。

 

 荻野美穂(2001:181-2)は、ERA反対運動が、男性と対等なキャリア形成機会の獲得を目指す中産階級白人女性(リベラル・フェミニズムと、白人中産階級の専業主婦女性との、「女の定義と解釈をめぐる戦い」であったことを指摘している。

 シュラフリーは、ベティ・フリーダン(1921-2006)と同世代で、専業主婦としての子育て経験の後に運動を開始した点でも似ている。反ERA派の女性たちが、議会議員に対するロビー活動のさいに、シンボルカラーのピンクの服を着て、「パンを焼く人からパンを稼ぐ人へ」というカードを付けた自家製のパンやジャム、アップルパイを、議員たちに配るというデモンストレーションを行うと、ERA支持の女性たちは、「59セント」のバッジ(当時のジェンダー賃金格差の額。男性1ドルに対して、女性はフルタイムでも59セントしか稼げていなかった)を付けて、議員たちにバターを配った。ERAが女性にとって「パンとバター(bread and butter)の問題」、すなわち生計の手段であることを訴えるためだ(荻野2001:181-2)。

 また、1982年6月30日のERA期限切れ不成立のさいには、ワシントンでシュラフリーを中心に1400人の大祝賀会が開かれ、参加者の大多数は女性で、「女たちの大勝利」「女たちによる偉業」として祝った(荻野2001:184)。

 荻野は、このようなERAをめぐる対立を、「女」の定義や「女」の理想をめぐる女同士の戦いでもあったと論じている(荻野2001:190-191)。アメリカでは、60年代から脱専業主婦化が進み、70年代末には過半数を割った(外で仕事を持つ既婚女性割合は62年37%、78年58%となっている)。

 女性の経済的自立・自由を主張するフェミニストの登場によって、専業主婦の価値が貶められていると不安に思い、鬱憤をためていったと考えられる。「シュラフリーのアジテーションの果たした役割は、こうした専業主婦層の漠然とした不満や怒りのはけ口として、ERA反対運動という具体的な目標を与えたことである」(荻野2001:190-191)。

 ERAは、宗教保守層と政治的保守層の結びつきによるニューライト誕生のきっかけとなっただけでなく、「女」の定義や「女」の理想をめぐる女性間の違いや対立の可視化ももたらした(後述3.でさらに詳しく論じる)。

 

【注】

[1] 「Library of Congress」ホームページ内「American Memories」 >記事「THE LONG ROAD TO EQUALITY: WHAT WOMEN WON FROM THE ERA RATIFICATION EFFORT」(執筆者:Leslie W. Gladstone、http://www.memory.loc.gov/ammem/awhhtml/aw03e/aw03e.html)を参考。

[2] 有賀は、「公民権運動にも反感を示してきた組織がERAにも反対した」として、ジョン・バーチ・ソサエティクー・クラックス・クラン、モルモン協会、南部中心に組織された全国州検討、白人市民会議などを例として挙げ、「それらの組織をERA反対のために統合したのがフィリス・シュラフリーという自称主婦の、実際は右翼の活動家の女性であった」としている(有賀1988:197-8)。

[3] ホームページ「Eagle Forum」>「Phyllis Schlafly Bio – founder of Eagle Forum」(https://eagleforum.org/about/bio.html)による。イーグル・フォーラムは、2019年3月現在でも毎月全4頁程度の“Eagle Forum Report”を発行しており、継続的に活動していることが確認できる。ホームページ「Eagle Forum」(https://eagleforum.org/)を参照。

[4] 『レフト・ビハインド(取り残されて)』は、ティモシー・ラヘイと作家ジェリー・ジェンキンズの共著小説。1995 年から 2007年まで出版され、全16巻、第1巻は650万部、シリーズあわせて8000万部以上を売り上げた(売り上げ冊数については、ワシントンポストHP「Tim LaHaye, evangelical author of ‘Left Behind’ book series, dies at 90」(Harrison Smithによる、2016/7/25の記事 https://www.washingtonpost.com/entertainment/books/tim-lahaye-evangelical-author-of-left-behind -book-series-dies-at-90/2016/07/25/1f20d3a4-5286-11e6-b7de-dfe509430c39_story.html?utm_term=.f312cdd8c35d による)。

ラヘイの教義は、「前千年王国説」(ジョン・ダービー)に基づくもので、「世の終わり/終わりの時(エンドタイムズ)」「最終戦争(ハルマゲドン)」「反キリスト(悪魔の代理)」「キリスト再臨」、そして「携挙(ラプチャー)」などを核とする(波津2006:75)。この作品を論じた波津は、「この作品が、米政治に大きな影響力をもつ宗教右派の思想の核にある概念を物語にしたもの」(2006:74)としている。

ちなみに、ティモシー・ラヘイは、1979年にジェリー・ファルウェルを「モラル・マジョリティ」に引き入れ、1981年まで自らもモラル・マジョリティの指導者(director)の地位を得て、活動した。1981年には保守系シンクタンク「Council for National Policy (CNP)」の創設を助け、その後も、「American Coalition for Traditional Values」や「the Coalition for Religious Freedom」の共同創設者だった。その後90年代に小説執筆活動に取り組んだ福音派の牧師・活動家である。

[5] モラル・マジョリティは、「少数の保守政治家と保守的なプロテスタントによって組織された新宗教右翼と呼ばれる政治宗教団体であり、ジェリー・ファルウェル牧師を指導者に迎えてから、離婚・麻薬・犯罪の増加、加えて勤労意欲の低下・教育の荒廃等に危機感を抱くアメリカ人の中に急激にその影響力を強めている」(重藤 1986:58)。

 

 

 【文献】

荻野美穂, 2001, 『中絶論争とアメリカ社会:身体をめぐる戦争』岩波書店.

重藤信英, 1986, 「アメリカにおける政教分離とその今日的課題」『日本政教研究所紀要』10: 55-83.