ポストフェミニズムに関するブログ

ポストフェミニズムに関する基礎文献を紹介するブログ。時々(とくに大学の授業期間中は)ポスフェミに関する話題を書き綴ったり、高橋幸の研究ノート=備忘録になったりもします。『フェミニズムはもういらない、と彼女は言うけれど :ポストフェミニズムと「女らしさ」のゆくえ』(晃洋書房、2020)、発売中。

『岡崎京子論:少女マンガ・都市・メディア』(2012、杉本章吾、新曜社)

杉本章吾さん(1979年生まれ)の『岡崎京子論:少女マンガ・都市・メディア』(2012、新曜社)を読みました。

 

  
私(1983年生まれ)は岡崎京子を通過せずにきた人なので、きちんと岡崎作品を読んでいないのですが、杉本さんの説明が懇切丁寧で、岡崎京子がとてもよくわかりました。おすすめです。
 
杉本さんは、90年代、00年代の社会学現代思想界隈の議論を丁寧に解説しながら議論を展開しており、そのラインナップからみて明らかに、杉本さんもニューアカにかぶれた時代があったに違いない!
にもかかわらず、文体レベルでは当時の悪文OKの影響下から脱しており、とにかく終始一貫して文体が安定していてわかりやすい。
この題材レベル(岡崎京子という作家と作品)の不安定さと、文体レベルの安定感のギャップが、個人的にはすごく面白かった。こういうのを良い研究書というんだよな、と一人で納得。
 
というわけで、さらに杉本さんに内田春菊論とか吉本バナナ論とか書いてほしいなぁー、読みたいなぁ〜 なんてことを思いました(*´꒳`*)
 
 

 

 
 

村田沙耶香『コンビニ人間』評(3)

(続き)

4.『コンビニ人間』の構造:ディストピア小説としての『コンビニ人間

 大きな社会と戦う正義のヒーローとしての古倉さんという読み方は以上のように可能であるのだが、しかし、『コンビニ人間』という作品を論じるときに、このような「社会問題的関心」から読んで評論するということですませるわけにはいかないだろう。

 というのも、我々の正義のヒーローであった古倉さんが突き進む道は、ディストピアにつながっている可能性が高いからである。古倉さんは、最終的に、白羽との「人間的な」付き合いを絶って、コンビニという教会に戻ることを決意する。私(高橋)はてっきり、古倉さんは労働を通して「人間性」を獲得し、その後、白羽という人間となんとか一緒にやっていく(パーソナル領域の構築)という結論になるだろうと思っていた。それが「現代の日常を舞台にする」小説の一般的な終幕の引き方である。

 それに対して、古倉さんは、複雑で雑多で曖昧な感情のやりとりを必要とする人格的コミュニケーションを捨て、コンビニ人間としての合理性原理を貫き、コンビニに戻っていく。ここで、私は、この作品はディストピア小説なのだと気づく。これまでの足場(私=古倉さん-対-社会)の構図は崩れ、空恐ろしい気持ちに襲われる。

 古倉さんの決断は、人格的コミュニケーション(人間関係)原理を薄め、経済合理性の原理に基づいて自らの生を形作り、維持していこうとするものである。しかし、個人の自由の基盤となっている人格的な部分を消去していくような社会を目指していくべき方向性(理想)だとは私には思えない。

 古倉さんのような人格的コミュニケーションや私的関係を薄めていくようなライフスタイルは、彼女の個人的なものの領域に属するものとして(ライフスタイルとして)尊重されるべきである。そこに他人が口出しすることは控えられるべきであり、ましてやそれによって他者からの攻撃を受けるべきではない。

 だが、社会全体の人々が、経済合理性を深く人格に浸透させ、それによって人格的コミュニケーションや私的領域を限りなく薄めていくのはディストピアである。

 

5.さいごに

 今後考えたいことについて

村田沙耶香作品は、女性主人公が最後に一人で生きていくことを選択する結末をもつものがいくつかある。女性の性欲についての深い探求がなされている『星が吸う水』([2009]2010)や『ハコブネ』([2010]2011)に登場する、志保→千佳子は最終的に付き合わないことを選んでいる。また、生殖技術が発展した近未来的SF設定の中で、男女のあり方を描いた『殺人出産』([2014]2014)や『消滅世界』(2015)の主人公も、パートナーとの生活をやめ一人個室で生きていくことを選ぶ。

・ロマンス女性作家とは別の系譜として描ける女性作家の系譜、「なぜ付きあい、結婚する必要があるのか」という問いをめぐる作品系譜のなかに村田沙耶香をおいてみたときに見えてくる彼女の特徴(新しさ)について。

・『消滅世界』や『殺人出産』は、フェミニズムSFの系譜の中に位置づけて考えてみるべき作品。

 

(終わり)

村田沙耶香『コンビニ人間』評(2)

(続き)

 

2.コンビニ人間』の「新しさ」:労働と人間性

 「personal(個人的なものの)領域/social(社会的なものの)領域」という区別に基づいて社会を編成している民主主義・自由資本主義社会において、経済的領域での労働は人間らしさや個性を剥奪され、社会の歯車にさせられる苦役(人間性の疎外)と位置づけられてきた。パーソナル領域での人間関係(家族関係や友人関係)は、大人の人間性を回復し、子どもの人間性を養うものとして了解されている(例えばT.パーソンズ)。

 それに対して、パーソナルな領域における「人間的な」ふるまいが納得できず、適切にふるまうこともできない古倉さんは、そのせいで周りの人々から「奇妙がられ」(p.12)、「異物」として扱われ、家族を悲しませ、そのことに自分も苦しんできた。古倉さんには、家族の愛情が欠如していたというようなパーソナル領域内部での「問題」があったのではない。パーソナルなコミュニケーション(人間関係)を成り立たせている原理――さしあたり「人間性」と呼ぶことにしよう――があまりにも複雑すぎ、あまりにも奇怪で、どのような合理性にしたがっているのかが見えず、したがって古倉さんが「理解」できなかっただけである。

 だが、18歳の時「コンビニ店員」になることで、はじめて彼女は人間界という意味での社会の一員になることができた。なぜ「コンビニ」でなければならなかったのか。それは、コンビニが隅々まで経済合理性の原理に貫かれて管理された閉鎖空間だからであり、そこでは適切な声のトーンや挨拶の仕方から始まってすべてが一つの原理――コンビニという空間の秩序を編成するための経済合理性――に基づいて決まっているからである。どのようなルールでその世界が動いていて、何が正しいのかが合理的に決まっているので、「わからない」ことがない。古倉さんは、その世界の一部品となって働くことで、自らの生の形(終盤で「私はコンビニ店員という動物だ」と表現されることになる)を確認し、自分の存在意義を獲得する。それだけでなく、「人間らしい」付き合いが要求される友人関係や家族関係も、より良くこなせるようになっていく。

 コンビニの原理(合理性)に適応できない白羽にとって、コンビニの労働は人間性を疎外する苦役でしかないが、コンビニの合理性を深く体得し、「コンビニの声」が聞こえる古倉さんにとって、経済合理性という一つの原理から、個々のすべてのもののあるべき姿が決まり(おにぎりの位置や、チョコレート菓子の位置)、すべての部分が他の部分と円滑にかみ合い(商品の配列の仕方、どこに何をいつ置くか、どのタイミングでどの仕事をするのか等々が、売り上げの向上やお客さんのニーズを最大限に満たすという目的につながって)、全体が秩序だっている世界はこのうえなく美しい。しかも、一つの原理からすべてが説明できる秩序だった世界であるコンビニは24時間休むことなく機能し続ける、信頼にたる確固たる存在である。

 ここに宗教に似た感情が生じる。彼女が働くコンビニのチャイムは「教会の鐘の音」(p.36)であり、朝礼で唱えるのは「誓いの言葉」(p.51)で、古倉さんは「店長がいるとやっぱり朝礼がしまるな」(p.51)と思い、「私は世界の部品になって、この『朝』という時間の中で回転し続けている」(p.10)。「いつも回転し続ける、ゆるぎない正常な世界。私は、この光に満ちた箱の中の世界を信じている」(p.36)。

 コンビニ=教会から離れていても、彼女の心はコンビニ=教会とともにある。「眠れない夜は、今も蠢いているあの透き通ったガラスの箱のことを思う。清潔な水槽の中で、機械仕掛けのように、今もお店は動いている。その光景を思い浮かべていると、店内の音が鼓膜の内側に蘇ってきて、安心して眠りにつくことができる。朝になれば、また私は店員になり、世界の歯車になれる。そのことだけが、私を正常な人間にしているのだった。」(p.27)。 

 確実に人の役に立っていて、日本全国にあって、自立的な閉鎖空間をなしていて、その内部についてはすべてが合理的に説明できるコンビニ。これは、人の生死の意味や、コンビニ空間を越えた世界の原理についての説明(世界観)を与えはしないが、少なくとも現在の彼女の精神安定のために機能していることは事実である。

 古倉さんは、コンビニ世界を統べる「経済合理性」という原理を人格のかなり深いところまで浸透させている。それによって古倉さんは、内的秩序を保ち、「人間」として機能している。私たち読者は古倉さんという存在を通して、コンビニ=教会という新たな世界に開眼するのである[1]

 

 

3.古倉さんというキャラクターと社会の性別役割期待構造

 ここまで、古倉さんというキャラクター(性格、人格、性の形)を見てきたが、このようなキャラクターは、少し極端で現実離れしているようにも思える。「病院」や「治療」という言葉がちらほら出ていることからも分かるように、「普通の」の世界では「病気」だとみなされているようだ。

 しかし、「36歳」「独身女性」「アルバイト」という社会的な「弱者」属性を与えられた主人公の一人称文体小説を、主人公に共感せずに読むことはほとんど不可能である。著者村田が丁寧に小さなリアリティを積み重ねていることも、共感的に読むことを可能にしている。そして、なにより、古倉さんというキャラクターは、人が無視できない引力(魅力)を備えている。自分の「わからない」という感覚に正面から向き合い、社会の同調圧力に負けず、社会に媚びずに生き抜いている姿は潔くてカッコいい。しかも、自分はかわいそうだとか、こんなにつらいんだとかいうような読者に媚びるようなところがない。ここまで自分を貫き通せない多くの読者は痛快だと感じ、こういう人をこそ「強い」というのだと、古倉さんを応援したくなる。

 古倉さんを私たちが無視できないのはそれだけではないだろう。古倉さんが一貫して抱いている「社会的な決まりごとが自分にはわからない」という感覚は、社会に生きている人間なら誰もがどこかで持ったことのあるものだ。多くの人間は、その自分の感情に気づきながら、なんとなく社会に合わせてここまでやってきている。古倉さんの存在は、そういう記憶を、諦念や恥の感情とともに刺激する。だから、私たちは、「わからない」という感覚を貫き通して不器用に生きる古倉さんを、無視して通り過ぎることができないような気持ちになる。

 以上のような理由から、私たちはこの小説を古倉さんの見方になって読み進め、ともに社会と戦う。古倉さんの視点から一人称で語られる物語を読む私たちは、決して古倉さんが狂っているのでもおかしいのでもなく、むしろプライベート領域で人間性や自分らしさが回復されると思って生きている「ふつうの」人たちこそがおかしいと思いながら読むことになる。古倉さんは、社会と戦う正義のヒーローである。

 「普通の人」の社会がおかしく古倉さんの方がまともなのだという立場から考えてみると、古倉さんがここまで「異物」として扱われる理由は、彼女が「女性」という属性を与えられているからなのではないかということに思いあたる。もし古倉さんが男というジェンダー属性を持っていれば、ことはここまで大きくならないのではないか。

 例えば、喧嘩している男の子ふたりを見て、女子たちが「きゃーだれか止めて!」と叫んだ時、喧嘩している二人をスコップで殴って「止める」という暴挙に出る「男の子」なら、想像の範疇内だ。「必要なこと以外は喋らない」男性は、けっこうたくさんいる。次の日もきちんと仕事ができるようにという目的のためだけに、一定量のモノを食べ一定の時間に眠るというふうに生活を秩序立たせるというライスタイルは、1990年くらいまでに就職したサラリーマンのスタンダードだった。

 つまり、古倉さんが家庭内の感情労働を期待される「女性」というジェンダー属性を持っているがゆえに、合理性しか理解できず、曖昧で矛盾しているところもある「人間性」や「感情」はよく「わからない」という古倉さんの気質は、重大な欠陥として周囲から問題視されたのだといえよう。

 このことを裏付けるように、主人公と男女の対関係を演じる男性登場人物・白羽もまた、女性というジェンダー属性を与えられていれば問題視されない側面も併せ持つ人物として造形されている。たしかに、自分を正しく評価しない社会が悪いのだ、自分はもっと高く評価されるべき人間だということを主張し続ける点は、ステレオタイプなある種の「男性」キャラクター(2チャンネラーとかネトウヨといったステレオタイプ[2])として造形されている。しかし、①「婚活目的」でコンビニバイトに来た点や、②少しの間、自分を社会から隠してほしいと頼む点は、女性であれば自然なふるまいである。③自分はいいアイディアを持っておりその技量もあるので、お金を出してくれる人さえいれば起業したいというのは、典型的な『VERY』的主婦女性の発想でもあり、女性であれば批判されないような行動だが、男性の白羽がやるので非難されるような、そういう行動である。実は、古倉さんと白羽の性別が逆であれば、ここまで大きく問題的な二人とみなされることもなく、物語としてもここまで大きなインパクトを持たないものとなる可能性が高い。

 こうして、古倉さんの視点から書かれる物語を読む私たちは、我々の社会の性別役割期待が強固に根強く残っていることに気づき、古倉さんの「異質さ」がこの構造ゆえに受け入れられないことに憤ることになる[3]

 

(続く)

――――

[1] ちなみに、時給で働いている古倉さんが、勤務時間外にも店の周りを歩き回って、近くに工事現場ができているとか、新しい店が出店したとかつぶれたといった情報をリサーチするのは、古倉さんという人間の成り立ちにおいて必然的な行動である(けっして「底辺労働」と言われるコンビニ店員が実はひじょうに勤勉で努力家な優秀な人材であることを示すためや、古倉さんが勤勉な人間だということを示すためではない)。 

コンビニというそもそも設計段階からすべてが人工的に作られていて、休むことなく管理されて機能し続けている空間では、すべてが合理的に動いていて不確実な要素は最小限まで排除されている。最大の不確実要素は、客の自由――すなわち、客がどれくらいきて、何をどれくらい買っていくか――というところだが、この不確実性要素をコントロールする方法も、コンビニ世界においては曖昧なままに放置されることはなく、どうすれば適切に対応できるか、その方法がたえず探求されている。古倉さんが、時間外に店周辺の情報収集をするのは、古倉さんの信じるコンビニという世界(教会)の秩序をより精密に美しく、狂いなく維持し実現するためである。

 

[2] 古谷経衡のスノーボールサンプリング調査によると、ネトウヨの社会階層は必ずしも「底辺」の若者ではなく、中年中流層も多いとのことである(『ネット右翼の逆襲 「嫌韓」思想と新保守論』 総和社、2013)。

 

[3] 本稿筆者(高橋)も、古倉さんや、白羽のような存在が「排除」されず社会全体の中に包摂され、安心して暮らしていけるような社会にすべきだろうと思う。

ただし、ここで気を付けるべきことは、多文化社会における「包摂」が行きづまったのと同じ問題に直面するということだ。すなわち、「マジョリティ」の価値序列で下位に位置づけられる人を、社会制度上包摂する(社会保障とか、最低賃金保障など)だけで、価値イデオロギー上「放っておく」だけでは彼らの「救い」にはならないという点。古倉さんの「救い」のためには、コンビニという「教会」が必要だったように。

 

村田沙耶香『コンビニ人間』評(1)

第43回 哲学カフェ横浜(2018/12/05)で報告させていただいた村田沙耶香コンビニ人間』評をアップします。

 

文芸批評とはある作品がもっている思想的可能性を展開して論じるものだと、私は考えています。これはとても重要な仕事だと思うので、これからも色々作品評を書いていきたい…。

 

今回の会は、村田沙耶香さんの芥川賞受賞作品『コンビニ人間』を読んだ哲学カフェ横浜のメンバーが、この作品は「よくわからない」、「若い人の感覚で書かれているような気がするし、それがこの作品をうまく理解できない根本原因かもしれない」ので、同世代の私(高橋)が読んだらどういう感想を持つのか聞かせて、という依頼で始まりました。

 

 

村田沙耶香 『コンビニ人間』([2016]2018、文春文庫)

 

1.はじめに

 コンビニバイト歴18年、現在36歳独身の女性「古倉さん」を主人公とする一人称小説『コンビニ人間』は、人格的な(persönlich, personal)人間関係から疎外された――つまり「人間らしい」人間関係というものが「わからない」(p.13)ことで苦しんできた――人間が、経済領域での社会の「歯車」(p.10)になることで、自分の生の形を獲得し、救済される物語である。

 コンビニは、1970年代に日本に進出し、1980年代に全国各地に作られはじめ、当初「郊外化」や「ファスト化」の象徴の一つとなったが、いまや地元に溶け込んだなじみの店であり、ライフライン、地元の文化と融合して新たな進化を遂げつつある存在だ。そのコンビニを舞台とする本小説が、2010年中盤の現在において「現代的」ばかりか「近未来的」な印象さえ与える。その理由は、ひとつには著者によって精密に作りこまれているため[1]であるが、最大の要因は、人間を規格化し取り換え可能な部品として取り扱う労働の典型例であるコンビニ労働を通して、主人公が「人間性」を取り戻し「社会性」を獲得するという転倒(倒錯)のためであるように思われる。

 経済合理性に貫かれたコンビニのマニュアルが、古倉さんの生の形を作り出し、社会の歯車としての満足感をもたらす。私たち読者がよく知っているように思えた日常のなかに強烈な違和が差し込まれ、読後感として残るのは底知れぬ不気味さである。

 

( 続く)

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[1] 真っ白な蛍光灯が光る「小さな光の箱」のガラスは、「指紋がないように磨かれ」(p.10)ていて、「機械が作った清潔な食べ物」(p.8)が整然と並べられているというコンビニの描写。また、トイレ掃除やバックヤードの汚さとか雑然とした感じ、暗さの描写が一切省かれている。

 

YouGovによる「自称フェミニスト率」世論調査

today.yougov.com

 

YouGovの調査は、毎年だいたい「あなたはフェミニストですか?」という問いに対してYes/No/Not Sureの3つで答えさせています。

その調査によると、2016年よりも2018年の方がアメリカ人のフェミニスト率は増えているという結果がでています。トランプさん効果でしょうかね。

2018年時点では女性の38%、男性の22%がフェミニスト

 

「男女はそもそも平等じゃないんだ」という性別役割主義の立場を取る人はだいたいどの統計を見ても20%弱くらいで安定しています。この統計だと、「I do not believe men and women are equal」の項目に賛成する人の割合が男性で10%中盤、女性で20%くらい。

 

UKの統計局がやっている世論調査でも、「男は外で働き女は家庭を守るべきか」という質問に対する全体の賛成率は10%中盤代でした(あとで、データソースを追記できたらします)。おそろしいことに同じ質問を日本ですると、日本の内閣府世論調査がそれをやってますが、賛成率が40%代になるという…!やっぱりこのイギリスと日本の世論の差は労働政策の違いによるものでしょうかねぇ。

 

 

yougov.co.uk

 

↑によると、53%もの人が「まだフェミニズムは必要だ」と考えているけど、フェミニストと自称する人は、男性27%、女性35%と、心もとないかぎり。